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日本計量新報の記事より 社説 2001/09-12

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■社説・組織が共通の目標を確認することの重要性(01年12月16日号)

 人は死んでしまえば何も分からないのだから恥や外聞は考えなくていい、と乱暴なことをいう者がいる。その真意は別にして、人間は死んだあとの名誉のことまで考えているからこそ筋を通して生きられるのだし、他人に信用されもする。

 日本の会社組織は侍の組織を引き写したものであるといわれ、そこには武士の心得に似た覚悟と行儀作法がある。

 武士道とは哲学者の津田左右吉によれば、日本の特殊な家族制度を背景に、戦陣の間に成長した独特の気風習慣であり、それは大和魂とは別のもので、徳川時代の博徒の犠牲的精神や任侠の気性と同じ性質のものである。江戸幕府と明治政府に仕えた山岡鉄舟は、求められて武士道のことを語っているが、そこに示された武士道は現代の世に伝説化された美しい形の武士道ではない。

 徳川幕府最後のころの各藩がとった行動の全体をみるとそこには伝説化された武士道はない。ただし会津藩など一部の藩には幕府への忠義、藩主への忠義という武士道にも似た行動が示された。

 明治以後の日本人の道徳観念は、欧米文化への崇拝思想と学校教育の影響などによりキリスト教思想が色濃く宿って、そうした思想に由来する良いことと悪いことの価値基準でできあがっている。現代の日本人が備えている精神構造は明治以降にできあがったものであり、日本古来からあった精神から発生しているものとは考えられない。

 武士の社会を引き写した現代の会社組織には武士道にも似たサラリーマン道が文化としてできている。会社はある意味で闘いの組織でもあるから、その組織の掟(おきて)は苛烈である。会社における闘いは他の会社との競争という形をとる。それは戦争にたとえてもいいだろう。

 兵学書の古典で戦争および戦略を論じたプロシアの将軍カルル・フォン・クラウゼヴィツは『戦争論』のなかで、「戦争とは、決闘の拡大されたものにほかならない」「戦争とは、敵を強制してわれわれの意思を遂行させるために用いられる暴力行為である」「暴力は手段であって、敵にわれわれの意思をおしつけるのが目的である」と述べている。

 闘いとはかくも過酷なものであるから、闘いのための組織の規律は苛烈になる。

 現代の日本の会社組織は労働コストの適正化を求めるあまり、従業員の削減を断行する「リストラ」という前代未聞の行為に出ている。「君子、信ぜられて後に民を労す」「君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり」とは孔子の言葉であり、君が君として信頼される行いをしないことにはその国は滅ぶことを述べている。会社組織をつかの間でも残すための破廉恥ともいえる策動であり、このように道を踏み外した会社に闘いのための結束の精神が残存するか疑問である。

 しかし日本の社会全体としてみると、企業の収益構造を維持するためには、内外価格差を克服する策を講じなくてはならず、このことの実現の道は険しい。

 ところで、孫子は戦争の法則性を探求した最初の人であり、述べていることの真理性は高い。孫子は言う。「上下の欲を同じゅうする者は勝つ」と。会社や組織が共通の目標をもっていることは、共同行動の前提であり、それが成功の条件となる。共通の目標に向かって、組織構成員が部署ごとの課題を設定し、それを実現させるためにやる気を起こすことが大事なのだ。

 また「将は国の輔(ほ)なり。輔、周なれば国必ず強く、輔、隙(げき)あれば国必ず弱し」と述べる。社長と幹部社員の息が合っていることの重要性の指摘である。補佐役に恵まれた劉邦が、補佐役を信じなかった項羽を打ち負かした。

 会社が成功するには代表者である社長の手腕に負うところが大きい。加えて幹部社員が社長の意を体した行動が大事である。社長に状況をありのまま伝え、実情に見合った作成計画を立案するのが幹部社員の務めである。判断し、結果に責任をとるのは社長である。だから幹部社員はごますりだけ、オベンチャラ者であってはならない。また社長の尊厳を犯すような言動は絶対にしてはならない。幹部社員が礼節を守り、言動を慎まないことは、それ自体が会社組織の規律を破壊するものであり、社員として失格である。

 幹部社員は自己の責任分野で業績や功績が目立つようになると、奢(おご)りがでることが多い。そして、知らぬ間に周囲に高慢になる。その結果は会社の代表者、責任者である社長に対しても横柄な口を聞き始める。そうした事態は社外に漏れるものであり、闘いの相手である競争企業がつけいる隙となる。

 隙を生じさせる責任は幹部社員の側にだけあるのではなく、人心を掌握するに相応しい器量をもたない社長の側にあることも少なくない。

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■社説・自己の業務を情報の形で整理統合する意味(01年12月9日号)

 日本人が自信を失いかけている。未来に希望を抱く若者も多くはない。高校、大学の新卒者に十分な就職口がない。中高年者の職がいきなり奪われる。これまで学んだこと、これまで培ってきた知識や技術を社会や企業がいきなり拒絶する。すべてのことが不透明で不確実で、物事が事件のように急激にやってくる現代の社会は新しい社会への入り口にたっている。新しい社会とは情報化社会であり、そこに向かって進行している情報革命は社会の既存の秩序をすべて否定してしまう。これまでの学校制度も企業の在り方も社会制度もすべて否定される。

 政治の世界も有権者の定まらない意識に翻弄されており、政権の安定など期待できなくなっている。長期政権は日本には当分期待できそうにないから政治は常に不安定である。日本が世界の政治舞台でヘゲモニーやイニシアチブをとることなどありえないから、日本は荒海の小船であり、このさき嵐のなかで大波にさらされつづけること必至である。

 日本の産業と経済社会システムは情報化社会に向かって急激に進展している。情報化社会が急進展するとそこにはときに一種の無政府的状態も出現し、後になって政治がそれを追認することになる。
 動きが急で不透明な現代の日本社会の現状と先行きを解くカギとなる基本的な言葉は、「情報革命」と「情報化社会」であり、周辺部の言葉としてコンピュータ、パソコン、インターネットなどがある。

 雪印乳業や三菱自動車の不祥事への対応の誤りが、そのまま経営困難につながるのは現代が情報化社会に足を掛けているから起こることである。雪印乳業の社長が記者団に詰め寄られて、つい「寝てないんだから」と怒気を込めて発言したことが、消費者への無責任と取られた。また三菱自動車の不祥事隠しはラリーの戦績を帳消しにし、商品の代選ができる消費者に他のメーカーの自動車を買わせることになった。

 ある技術が企業の絶対的な独占物とはならず、多くの技術が代選可能な技術であることは、大きな視野にたって見ると専門的な知識や技術が比較的だれにでも入手しやすいという現代社会の特質を反映している。雪印乳業が製造しているものは他の企業の製造物の代選で済ませることができ、また三菱自動車の製品はトヨタその他の自動車メーカーのもので済ませることができるのである。

 情報化社会への入り口にいて、情報革命の進行の真っ只中を生きることは難しい。直接にパソコンを操作しなくても電子情報が超時空的に飛び交う情報化社会という新しい事態につねにふりまわされる。静かに深く新しい市場を掘り起こしているように思っていても、それが知れたとたんに競争相手がいくつも現れてくる。というより新しい市場にははじめから複数の競争相手がいるのである。

 計量に関係した技術も行政事務もすべての業務は、情報という形に置き換えることができる。ISO9000シリーズなどの品質保証システムも、すべての業務を情報に変えて、それを合理的に管理するシステムと考えれば理解がし易くなる。

 そうした意味では計量の業務に従事するすべての人々、たとえば計量士、関係の技術者、サービスマン、営業マン、経営者も自身の仕事を情報の形態に整理し変換して管理することは意味あることである。

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■社説・計量協会は地方公共団体の計量事務を担う(01年12月2日号)

 計量協会といえば都道府県と市町村の計量協会を指すようになった。その計量協会をとりまく諸環境が大きく変動しており、新しい事態に対応するため多くの計量協会が懸命の努力を強いられている。

 計量協会に起きている新しい事態として、@計量法の諸規制が緩和されたことと連動して薬局など販売事業者の退会が目立っていること、A経済環境の悪化から大手製造業および流通業の会員の退会が続いていること、B指定製造事業者の指定を受ける事業者が増えるのに反比例して証紙販売手数料収入の減少が顕著であり、この面からの事務局経費の捻出に困難が生じていること、C地方公共団体の財政が苦しくなっているため、この方面からの補助金が継続される補償がなくなりつつあること、Dその他、がある。

 以上の新事態はすべて計量協会の運営を困難にする要素となるものであり、出口のない困難な状況と判断される。

 事態を打開する方策として、@計量関係の各種団体と事務局を統合すること、A指定定期検査機関の指定を受けて定期検査を実施することを通じて、事務局経費をいくらかでも捻出すること、などが考えられている。ある地方の計量協会では、@協会所属もしくは協会と契約した計量士による代検査の実施、A適正計量管理事業所あるいは一般事業所との計量管理契約に基づく事業の実施、などによって収入をあげている。

 会員が納める会費収入だけでは事務局経費を賄えないのが多くの計量協会の財政実態であるため、協会運営は年を追うごとに困難の度合いを増している。

 このような事情のもとで、これまで国民のあるいは都道府県と市町村の住民の計量の安全を守り、住民福祉を基礎で支える計量行政の重要な担い手である計量協会を何らの手も打たずに消滅させてしまうことがあってはならない。都道府県と市町村には計量行政を担当する部署があり、計量法に定められた事務を実施している。計量行政の円滑な実施のためには計量制度を住民が理解していることが前提となり、この方面の周知と広報の役目を計量協会が担ってきた。

 計量法の新しい制度である指定定期検査機関制度は、計量協会などが地方公共団体に代わって定期検査を実施する仕組みになっており、この制度がゆっくりではあるが普及している。この面をみると計量協会はこれまで以上に地方公共団体が実施する計量事務を担うことになり、社会的役割が増している。それなのに多くの計量協会が財政の困難を抱え、組織存続の危機に直面していることは皮肉である。

 なんとしても協会運営の有効な打開策を見いださなくてはならない。

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■社説・計量協会の存在は行政費用の節約につながる(01年11月25日号)

 地方の計量協会が運営に苦しむようになったのは事業規制を緩めた新計量法が施行されてからである。それまでも慢性的な会員減少の傾向に悩まされていたが、新法施行がこれに拍車をかけた。

 計量協会の現状は様々であり、地方ごとに組織されている計量協会の名称を用いた組織の現状は単純には語れない。組織の規模が大きく、事務局体制と事業のしっかりしたまずまずの体裁を維持している計量協会は47都道府県のうち3割程度はあろう。会員数が少なく、会費と事業規模も小さく、専任の事務局員を配置することなどとうてい及ばない崩壊寸前の悲しい状態の県段階の計量協会組織が3割程度になっているであろうか。実質上は組織の体をなしておらす、つぶれているといっていい計量協会が5指、つまり1割はある。残り3割はこれから会員数の動静がどのように推移するかで、まずまず組になるのか、崩壊組になるのかに分かれる。これら計量協会関係の組織には都道府県段階の組織のほかに、大阪市、川崎市など市町村段階の計量協会組織が存在し、それぞれに歴史的背景を背負って活動している。そうした組織も昔と比べると随分と見劣りがするようになっている。今後このような地方計量協会など計量団体をどのようにしていくべきなのか、関係している役員ならびに指導監督(本来的な意味では助力)する地方公共団体の当事者は悩みが多く、実際のところ解決策を見いだしにくいことであろう。

 「計量協会とその会員が地域社会に果たす使命は何であるか」というと、適正な計量の実施の確保、計量の安全の実現のために会員である計量器関係事業者などが、率先して目的に適合した計量器を選ぶ手助けをすることである。このことは計量器事業者が自然にもっている本務感に基づくものである。適正な計量器を販売することは、その結果として適切な計量結果を実現することに直接寄与する。計量行政機関は計量器の検定をし、また使用中のはかりの定期検査を実施するという仕掛けをつくって、取引・証明分野の適正な計量の実施を確保しようとする。しかし、取引証明に用いてはならない計量器が当該使用場面に供給されれば、定期検査実施の目的は達せられない。また、買い求めた計量器が定期検査の対象であることを購入者が知らなければ、定期検査を受けることが少なくなるので、これもまた定期検査制度を目的通りに機能させないことになる。

 このようなことから計量の安全は役所だけが頑張れば実現できるものではない。計量協会と会員事業所の使命がここに明瞭になる。また計量協会と会員事業所の活動の社会貢献の大きさも明らかであり、計量協会があることによって行政費用が限りなく節約されているのである。

 また、行政が機能するには、その行政内容が住民によく理解されることが前提になるのが普通である。計量行政は住民の理解が得られるほどに成果をあげられるものである。住民の行政内容の理解のためには計量協会の組織は広報機関の一つになり、またこの組織は計量行政実現のための協力機関として機能してきた。あだやおろそかにしてはならない事情は明かである。

 計量協会は構成員の会員事業所が適正な計量の実現というその本務感に根ざして、計量行政機関のよき理解者として、協力してきたのである。そうしてみると計量行政の円滑な実施には、住民の正しい理解を求めるとともに、計量行政機関と計量協会などの行政への協力が2人3脚として連携することが大事である。

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■社説・現代の社会は計測社会である(01年11月18日号)

 計量の歴史を知らなければ計量を知ることができない。計量器の歴史を知らなければ計量器を知ることができないのは当然である。計量行政についてもそうであり、また計量団体についても同様である。

 ある地方公共団体の計量部署に勤務する職員は計量検定所と計量行政と計量業界の歴史を調べる必要が生じたことから、歴史好きになりとりわけ計量史を掘り下げるようになった。歴史研究というとことを大きく構えすぎるようではあるものの、限られた計量の分野、そして限られたある時代の歴史を記録できるのは、そうした分野に係わった者でないと難しい。

 自身が係わっている分野の歴史と事情を知ることは、現在を正しく理解することにつながる。また過去が分かり、現在が理解できれば、未来を推しはかることが可能である。未来を推しはかることができるとそれにあわせて自身の進むべき方向と態度を固めることができる。

 行政機関の職員が自分の職務に関してこれまでの歴史や事情を知ろうとしない場合にはとんでもないことが起こる。頓珍漢なことをしても実害のない場合には周囲は笑っていられるけれど、正常な業務の進行に急ブレーキをかけるような事態がときどき発生する。このような場合でも急ブレーキを踏んだ者が権限の大きな役職にある場合には、そのことを指摘されることが少ない。単なる急ブレーキならいいが、車が谷底に転落するようなハンドル操作である場合には計量行政の終わりをもたらし、国民の福祉に不利益をきたす。

 計量行政の歴史の記録、有益な資料の保存ということになるとおぼつかないのが現代の計量行政である。これは国など中央官庁も地方公共団体も同様である。地方公共団体になると自らが実施すべき計量行政に関してその意義と任務を理解できる文書が庁内にないであろう。新任の計量行政の責任者に計量行政にイロハすなわち入門書になるような書物がないばかりでなく、そのことを説ける職員が少なくなっている。このように計量行政の職務の継承、計量行政上の計量器に関する知識あるいは機器の検査等の技術の継承だって大いに怪しい事態になっている。そうした状況から将来を見通すと、計量器の検査など技術面のことは相当数の地方公共団体が民間機関など外部に業務を実質上移管することになるであろう。

 国が実施すべき計量の事務も、地方公共団体の実情と大同小異であることを、戦後の計量行政に深く係わってきた元国家公務員らが語っており、元地方公務員らもこれを否定しない。

 計量の歴史を知る者には「計量制度は貨幣制度とともに」あったことは事実の一部ではあっても全部ではないことが明らかである。計量制度の前に計量という技術を人類は身に付けつようになったし、文明の始まりは計量を起源とするといってもよい。計量は計測と言い換えてもよいのであるが、それはまずは技術であったし、根元的にも技術である。技術をテクノロジーというと分かりやすい人も多いであろう。

 計量というテクノロジーを用いると自然現象のことなどさまざまなことを知るのに大いに役立つ。計測技術を通じて自然現象を知ることは文明の始まりに結びついたし、文明の発展は計測技術なしにはあり得なかった。計量あるいは計測は知ることと意味が近いし、情報とも近い。そうすると現代の情報化社会というのは知識社会ということができるし、計測社会であると飛躍させてしまう人もいる。

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■社説・明日を健全に生き抜くための方法(01年11月11日号)

 計量の世界で活動する人々、とりわけ団体の役員として活動する人々の高齢化が気に掛かる。高齢者は生きてきた期間が長い分だけ物事を判断する材料を多く持ち合わせており、また人生の熟達者である。

 団体の長を務めるとその団体の社会的使命に由来して、社会的功績が評価され国家からご褒美の賞が与えられる。計量関係団体の場合には先人の苦労とあわせて計量制度の社会的機能の大きさのため評価が高い。国家の顕彰を望んで活動をする団体役員が少なくないことも事実である。

 計量団体の活動が高齢者の役員の役割の大きいことを念頭におきつつ、地方の計量協会あるいは関係団体の今後のあるべき方向を述べたい。企業経営の第一線に従事しながら工業界、あるいは計量文化団体の活動に役員として関わる場合には、単純な奉仕活動だけでは安んじてその職務を全うすることは難しい。役員活動がどんな形かで事業や経営に役立つものでないと時間と労力の浪費になり、奉仕しようという善意はあっても行動は鈍いものとなる。

 北陸のある県の経営者は、「日本計量協会の会合のため上京するときには何かを学ぼうと努め、そこで得られた知識や東京の空気を吸うことによって自分の事業の方向を定めることができた」とある会合の場で語っていた。自分が行動していることのなかから何でも学んで行こうという積極的な姿勢があったればこそ実現したものであり、同じ条件に居合わせながら事業を衰退させた者もいる。また、ある工業界の役員は、「他の優秀な経営者の方々にお会いして、その咳声に接することがなによりの勉強になった。若輩の者には先輩の薫陶がなにより貴重な勉強の場となった」と述べている。

 経営者は社内にいるときよりも社外に出たときの方が刺激を受けることが多い。自分を高められる場、いい知識を得られる場はどんな立場の者にもなくてはならないので、計量関係団体のさまざまな会合をそのような修行の場にする工夫は大事なことのように思われる。

 計量関係の役員の高齢化は、若手の登用への配慮に欠けることと表裏をなすものである。若手を登用することは団体の次世代を養成することであり、同時に団体に新しい息吹をいれ、活性化することにつながる。若手は新しい時代の感覚をもってその団体を批判的にみているから、旧来からの役職員とは摩擦をおこすことがあるかも知れないが、そうした摩擦あるいは議論こそが団体を時代に適合させてゆく保障になる。

 高齢者と若手の意識の間隙はなかなか大きいもので、ある団体の長がその職を退くと後継者はその団体から脱退したり、脱退しなくてもそっぽを向くという事態がみられる。計量協会などは次世代の若い人々を協会活動など事業に引き込むようでなければ、明日を健全に生きてゆくことができないであろう。

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■社説・よいモノをやすく作れないと競争に負ける(01年11月4日号)

 日本の国民に国の借金をどうするかと問えば、痛みを伴う措置をもってでも借金返済をすべきだという答えが返ってくる。日本国民の預貯金は世界の国々の人々が驚くほど高額を保有しており、国の借金を小さくしていくことと、自分の預貯金が取り崩されることとは別のことであるから、国は借金を減らすため懸命になりなさいというのである。これは議論としては当然のことであり、借金踏み倒しは許されることではない。借金返済問題を議論する場合にはその借金がどのようにして作られ、借りた金が生きた金だったのかということを考慮する必要がある。国は借りたお金の使われ方を国民に誠実に説明してこなかったし、説明するのに困ることが多いはずである。時代遅れの機能しなくなった行政機能にお金を使うことはない。大事な場所の道路建設にお金が使われず、人など通らない舗装の農道が作られ維持される。貯水ダムと砂防ダムの有効性に疑いがもたれるようになった。同じお金でも無駄な使い方をされるものと生きた使い方がされるものがある。

 日本国の経済が低迷したままである。一とき浮揚感がでたものの小泉純一郎内閣が発足してからは低下傾向がはっきり現れている。首相が行政改革などで格好つけるときに景気に下降現象が現れるのは橋本龍太郎内閣以来のことで、ジンクスというものを超えているように思われる。

 日本経済の長期的低迷あるいは下降現象はなにに由来しておきたものなのか、見方はさまざまである。「構造改革なくして景気回復なし」という立場をとっているのが小泉内閣であり、対抗する立場としてデフレ克服こそが最緊急課題であるとする景気対策派がある。

 日本の景気低迷が景気波動にともなうある程度避けられないものであるとしても、その対策にはセオリーがある。世界は景気の波動を通じて新しい経済に移動していく。いまの日本がどのような方向に向かっているのかといえば、パソコン等の発達と普及にともなう経済に占める情報の役割の増大であり、さまざまな製品に情報技術が組み込まれることは避けて通れない。情報化社会という新しい経済社会に足を踏み入れており、情報技術はより簡便に利用できるようになる。情報技術は人々が意識するとしないとに関わらずより広くより深く生活と社会に浸透する。

 公共投資はこの方面で積極的に行われるべきであり、これによって関連の社会基盤を整備するべきである。また発生しているデフレは需給ギャップによるものであるから、需要を喚起するための景気対策が求められる。

 橋本内閣の経済運営の失敗につづいて小泉内閣が前車の轍を踏むように日本経済を落ち込ませている原因は明らかである。財政赤字の拡大を恐れるあまり、景気刺激策を発動した後で、その効果を殺してしまうような財政緊縮策を繰り返していることがそれである。

 日本の政府が技術と経済の流れをしっかり見つめてこの先この国をどのような国にしようとするのか、間違いのない方向性を定めてそのために邁進することが肝要である。

 産業社会の面とくに計量計測機器産業の将来に関しては国際競争が避けられない時代に突入している。ものはより条件のよいところで作り、どこよりも安く売る。他社がつくれないものを商品にすることが理想であるが、その商品を社会が求めてくれなくては商売にならない。人が欲しがる商品を他社が追随できないような方法でつくることが商売のこつであるが、商売のこつの一つに海外生産が含まれてきている。

 計量計測機器は簡単なコンピュータ技術を利用することによって、旧来はなしえなかったような製品の開発が続いている。デジタル表示の一般需要家向けの自動血圧計がそれであり、また室内温度と室外温度を最高最低温度とともに測定記録するデジタル式の室内外温度計もその一つである。機械技術を使うと生産費が高くついたものをコンピュータ技術を利用すると格段に安く作ることができる。

 人々が使いたくなる計量計測機器を開発し、それを買いたくなる価格で販売することが計量計測機器ビジネスである。よいモノを安く作れないと競争に負けることになる。また必要なモノを必要なときに適正価格で迅速に供給することはそれ自体がビジネスとなる。計量計測技術というサービスを同様に供給することは大事なビジネスである。上手く計れればとてつもなく都合がいいという需要を満足させれば対価が得られる。
 計量計測機器ビジネスもまたコンピュータが重要な役割を果たす情報化社会において大きな飛躍をしなければならないし、それは企業と業界に変化をもたらす。

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社説・産業の振興に寄与する地方計量行政(01年10月28日号)

 計量計測の技術(テクノロジー)と計量計測機器とは表裏一体であり、計量計測技術と計量計測機器をあわせて計量のテクノロジーといっていいだろう。計量のテクノロジーがその機能を発揮するためには前提がある。計量単位の基準を定めたりするなどの社会的な取り決めであり、これが計量制度と呼ばれる計量の社会システムである。

 日本の計量制度という社会システムは、日本の経済社会が作動するうえに欠かせない社会基盤の一つである。日本の計量制度という社会システムは、世界の計量制度とも整合性をもっていなければならない。世界の計量制度はメートル条約などによって秩序だったシステムを用意しており、この国際的な計量システムに適合するように各国は国内の計量制度をつくりあげている。このような形で世界と日本と各国の計量制度が形成され、この上にたって計量計測機器と技術が機能している。そのような事情から国は学術や文化や産業が振興するように社会基盤としての計量制度を確固として整備し、維持しなくてはならない。

 工業など産業の振興がこれからという途上国の場合には、計量制度の確立と整備を含めて工業および産業が栄える基盤となる社会資本が貧弱なことが多い。その国で質量や長さや体積あるいは温度の基準を確認するための体制ができていないのだ。計量の基準の確認ができない国では工業の振興は難しい。また農産物を輸出する場合でもそこに表記されている質量や容積は信用性をもたない。実際にこのように計量の基準の確立されていない計量制度の未確立な国は少なからず存在する。

 このような国に日本国では、計量制度の確立とその国の計量技術者の育成のための援助をしている。南米、アジアの各地などに長期滞在して計量技術の技術移転に従事している人々がいることを知らなくてはならない。関係する人々の仕事は努力という範囲を超えて、それは献身という言葉が似合うものである。神奈川県計量検定所を退職した元所長の石井政国氏はその一人で、パラグアイ政府の計量制度確立のための助力者として業務をこなしている。

 日本のように計量制度が確立して、この上で計量計測が不都合なく機能していると、計量制度がそれですべていまくいっていると思うようになる。しかしそれは勘違いの一つであって、日本のように科学技術と産業と文化が高度に発達した国では、その水準に見合う形で計量制度を整備し、高度の計量計測が十全に機能するようにしなくてはならない。

 埼玉県所沢市では畑地のダイオキシン汚染による野菜への影響がテレビで報道され、騒ぎになったことがあった。ダイオキシンなど微量物質の測定は、測定機器あるいは測定方法などを含めて社会的な合意の形成が求められる。

 また一般の精密あるいは超精密な測定分野には計量法は直接には関与していないのであるが、計量の社会的システムとしては計量標準のトレーサビリティの分野から深く関わっている。

 計量法は地方分権制度の体制に対応する体系に変更されているが、地方公共団体の計量行政は住民福祉の向上に直接寄与する分野の業務だけではなく、計量の方面から地域の産業と学術と文化の向上を支える仕掛けを新たにつくらなければならない。

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社説・会員の組織への期待と満足度の落差(01年10月21日号)

 計量協会という名称が中央団体からは消えて、都道府県および市町村などの地方の計量協会だけが用いることになった。かつては度量衡協会を名乗っていたものであるが、度量衡法が計量法に名称と内容を変えたのに連動して、計量協会の名前になった。度量衡の世界、計量の世界が関連した法律とその施行としての行政に密着していたことから、計量法の時代になると計量協会になったのだろう。その計量協会の名前が中央団体にはなくなってしまったことに、計量協会が社会に占めようとする名誉ある地位の放棄に見えてしまうという考え方をする人がいる。名前が消えて、他の2つの団体と組織が一つになったことのいきさつを正確に知る者は少ないようだ。中央団体の名称からは計量管理協会、日本計量士会も消えている。

 本紙では統合の経緯を、発表され、説明された資料のままに報道してきた。しかし、これでは十分でないと考える当事者がいるようで、統合の実務に従事したその当事者の一人から3団体統合の一端に触れる匿名の投稿があった。新聞紙上では内容の骨格のみを伝え、全文はそのまま本紙のホームページである『計量計測データバンク』の無料閲覧の項目に掲載してある。この文書に統合にいたる全てが語られているわけではなく、統合の全体を知るには旧3団体が統合にあたって発表し、議事録に納めた文書を基本に据えることが至当であろう。統合前の旧3団体とは発足順に日本計量協会、計量管理協会、日本計量士会であった。

旧3団体の業務が新団体に引き継がれているのであるが、統合後の現在の業務に満足する人々、不満足な人々、今後に期待する人々など、会員・関係者の思いは様々なようである。

 会員構成員である地方の計量協会をはじめ地方の計量団体は、実質的にその寄って立つ所の計量法の事業規制の緩和という変化のもとで、組織的結集力を弱めている。会員数を大きく減少させている地方計量協会がほとんどであり、向こう数年で組織体としての体を失いかねない協会が少なくないようだ。地方の計量協会の側からすると加入先団体に期待するものは多いものの、充足してもらえるものが少ないという燻(くすぶ)りが付きまとう。

 期待するものと充足感との落差はどのような場合でもつきまとうものであるが、現在の計量関係組織にみられる組織と会員の間でのこの落差はこれまでにも増して大きい。その原因が法律を後ろ盾にする計量関係組織にあるとするのであれば、法律を後ろ盾としない組織に変えてしまうことである。そうした上で会員の期待するものに対する充足をはかるようにすれば問題は解決する。もっともこれは心理学的解決法であり、現実の組織構成員の求めに対する有効策ではない。

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社説・独創性ある商品を生み出せない理由(01年10月14日号)

 物事を考えるのはコンピュータではなく人間であるから、人間は賢くなければならない。そうだとすると今の日本の社会は賢い人間をつくることに怠慢であると思われる。日本では学校教育は投じる費用に見合っていない。また教育の仕方が間違っているために学ぶ側に意味のない労力を課す。その学習が意味をなさないことの事例は多すぎる。

 入学が最難関私立大学文系の入学生の2割の者が小学生の分数を解けない。これは入試科目から数学が外されているため、高校入学時点での学習を捨ててしまう結果生まれる現象である。大学入学者の一般は大学入学検定試験(大検)に合格できる基礎学力がない。これも大学受検のために少数教科に特化した学習をした結果である。私立最難関文系の卒業生の2割が小学生の数学が解けないまま会社に入り、教育系の学生は小学生の算数がわからないまま、数学的素養がない状態で授業をするのである。これでは日本の将来の産業と技術の基盤が危うい。国防の安全保障ではなく、教育の安全保障こそが国の運命を決めかねない。武田信玄は「人は石垣」と言ったが、コンピュータ時代であるからこそ、「読み、書き、そろばん」に代表される人間の基礎的素養を十分に涵養することが、国造りのもとのもとと言えそうである。

 アメリカは日本の成功を国民教育のなせるわざと見て、1983年に教育長長官が『危機に立つ国家』とういう報告書で、学生の学力の低さ、学習時間の少なさ、教員の質の低さを指摘して、改革を呼びかけた。レーガン、ブッシュ、クリントンの政権下で、アメリカ人子弟の数学と理科の学力を報告書以後15年間で、過去25年間の最高の状態まで持ち上げた。日本の場合には東大を例にとると、教養学部から工学部に進む学生の数学の学力は1981年に対して1994年は22%低下している。東大の教養課程の理系コースでは1998年の20年間に15%低下している。

 『教養が国をつくる』という考えをアメリカの教育界はもつようになり、1987年にバージニア大学のエリック・ハーシュ教授が、同名の著書を出してベストセラーになった。ハーシュ氏が『教養が国をつくる』でモデルにしたのは、日本とスウェーデンの初等教育であった。アメリカが基礎学力の向上のため数学の授業時間を増やしたときに、日本では個性化や理解力を重視するという名目で授業時間が減っている。中学1年生の授業時間は日本99時間に対してアメリカ146時間である(1991年時点)。
 日本人の数学、物理など理科系統の素養の低さは、旧計量教習所教習生でこの分野へ試験でどうしても点数を取れないという者が一定の割合で存在することからも理解できる。数学的素養のない技術者がいてもらっては困るのであるが、数学や理科嫌いを生む素地を取り除くこともまた大事である。

 数学や理科や英語の力が学歴を決める要素とはなっていても、その学力の実体にはお寒いというのが日本の現状である。あてにならない入学試験が、企業の入社試験の肩代わりとなっている日本はちょっと変ですよ。

 日本の企業は実力者や個性を判定する自信がないので大学の名前にすがって人を採用したために、いま独創性ある商品やビジネスを生み出せないでいると思えるのである。

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社説・計量計測器の今後の発展方向(01年10月7日号)

 時代は新しい局面を迎えており、産業社会は情報化という波に洗われている。「今なにを学びたいか」という問いに対して、ビジネスマンの答えの一つに「パソコンの自由自在な使いこなし」があった。

 パソコンは情報の受け応えをする窓口であり、重要な道具である。これまで多くの組織や知識を動員しなければできなかった事項が、パソコンを操ることによって手軽にできるようになっており、このことは今後とも大きく進展するであろうから、パソコンを使えることは、仕事をこなして行く上で欠かせない。パソコンは情報化社会の重要な道具であるからそれを使いこなすことの重要性を強調するものであるが、情報化社会にあってパソコンが全てということではない。アインシュタインは「自分は数式でものを考えているのでない、数式は考えるための道具だ」ということを日本に来たときに話しており、この言葉はコンピュータを数式に置き換えると、そのまま当てはまると思う。

 天才科学者のアインシュタインは特殊相対性理論を何の土台もなしに突然に思いついたのではない。ニュートン力学およびマクスウェル電磁気学という既存の概念と科学理論等の諸道具をもとに、その矛盾を衝きなら生み出されたものである。今日の情報化社会についてもこれが何もないところからいきなり現れたのではなく、情報化は文字の発明、紙の発明を土台にして、その後の電信技術の発達をへて、コンピュータの登場となり、さらにパソコンの普及が社会のコンピュータ革命をもたらし、情報化社会へと導いてきたのである。

 コンピュータは能力を増大させるほどに知能化し、人間が物事を考えるための道具であることを忘れさせるけれども、人間の頭脳と同じ働きをすることはできない。肝心なことを思考するのは最終的に人間である。コンピュータに機能を与え、仕事をさせる人間は考えることの主体であり、主役であり続けるから、人間を賢くさせることはもっとも大事である。

 計量計測機器はコンピュータの力を借りて様々な応用製品を生みだしてきている。それは計ることと、計って得られたデータを計算機を利用して活用することによって達成されてきた。計量計測機器の今後の発展方向は、測定の精密さの向上とあわせて、いくつもの測定データの組み合わせと演算処理の延長線上にあると考えられる。測定方式に関しても非接触のほか、物理や化学的な方法のほか、生物学的な方式が考えられ、計って制御すると具合がいいことをビジネス分野で見つけることが新製品、新商品あるいは新概念の計測器を開発することにつながる。

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社説・侵略戦争への反省のない国の武力への依拠(01年9月30日号)

 計測技術は産業はもとより科学分野および軍事分野においても基礎的技術として機能するものである。民需用にも軍需用にも使える技術としてデュアルユース・テクノロジーという概念があり、基礎的な技術である計量計測技術はそのままこの概念に当てはまる。個別事例を引くと、レーザー測長機は戦車、ヘリコプター、攻撃戦闘機に搭載されている目標物までの距離をはかる装置と基本的に同じものである。GPSにしてもそうであり、これをミサイルの誘導装置に応用すると、射程による誘導精度の影響がなくなるので目標への命中率は飛躍的に向上する。
 レーザー測長機やGPSの小型受信機を製造する基本技術を持つ国は日本など少数の先進国に限られている。秋葉原の電気街で外国人に無闇に売ってはならない機器というのはこうした機器のことである。計測機器製造企業が10数年ほど前に共産圏へ売ってはならない機器装置を別の製品に紛らわして輸出したためにココム違反の罪で摘発され、罰っせられたことがあった。
 ニューヨークのビルとペンタゴンへの旅客機突撃事件は、イスラム過激派のテロであるとして、反撃のための戦争が実質上開始された。
 国家は国と国民の生命の安全のために、テロやクーデターなどの違法、卑劣な暴力行為に対して予防措置をとらなくてはならない。しかしそれは容易なことではなく、現に日本においてはオウムが地下鉄でサリンをまいて大量の死者を出した。オウムの無差別大量殺人行為は一般には意外なものではあったかも知れないが、松本サリン事件を国と警察がもっと重く受け止めていれば、防げたことである。日本の公安は、公安の組織を維持するために、公安が調査をする対象がなくてはならないので、国家の安全という目的に対して、公安の維持が目的になってしまうため、左翼の過激派を残存させてきたことが明らかになっている。オウムの監視は実質上なされておらず、被害者や地元住民の摘発によってのみその犯罪性と暴力性が暴露されたに過ぎない。地下鉄サリン事件は公安を含む警察の、国と住民の安全を守るという意識の低さを背景に引き起こされたものである。米国政府も日本の政府も今回のニューヨークのビルへの旅客機の突撃事件への対応は、発生した事件の衝撃性に驚く余り、過剰になり過ぎるきらいがあるのではないか。
 テロと軍部のクーデターを区別する要素は少ない。日本の政府が地下鉄サリン事件による大量殺戮と阪神淡路大震災における危機管理に関して国も無気力と無策を露呈した反省のないまま、今回のニューヨーク事件に関して米国政府へのおもねりが過ぎるままに直情的行動をとることに大きな懸念がある。
 テロはその土壌がある限り発生するし、軍部の異常心理と軍人が政治に大きな力を及ぼすような土壌が産まれるとクーデターの恐れが大きくなる。世界には軍部のクーデターによってて産まれた政権が少なくない。

 国際政治の舞台は常に硝煙と裏腹であり、自衛隊という攻撃力だけで国際比較した場合でも有数の軍隊をもつ日本国が、米国と一体となって、イスラム過激派への報復をすることの是非をよく考えなくてはならない。日本国は中国や朝鮮や台湾やアジア諸国に侵略したことの反省を十分にはしていないのだろうと思うからである。軍事侵略の事実を忘れた人々が武力に依拠した「報復戦争」に手を貸すことで、その後に軍事に関して抜き差しならない事態に進展することが大いに危惧される。

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社説・予測を超えた事故やテロ攻撃とその防止策(01年9月23日号)

 米国の国防省建物のペンタゴンと国際貿易センタービル等がハイジャックされた旅客機によって、2001年9月11日に攻撃を受けた事件で、現在までのところ計量計測関係者の被害はない。国際貿易センター近く米国支社を置いている関係企業があるが、直接の被害はなかった。かつて日本国内で予測を超えたオウムの地下鉄サリン事件では、金属製温度計事業者の社員が出勤途上で事件に遭遇して死亡している(殺された)。日本航空機の御巣鷹山への墜落事故では、一人が死んでいる。

 今回の米国での旅客機ハイジャックとビルへの突撃事件は、予測をはるかに超えた驚愕の出来事である。予測を超えた事故ということでは9月1日深夜、新宿・歌舞伎町で発生した火災事故もの同じである。二つの事件は共に犯人がいて、騒動を起こすことを目的に実行に移されたものと判断される。米国のハイジャック突撃事件は米国への恨みを抱いた政治性をもったテロルであると思われる。後者はマージャンゲームの店舗への恨みに根ざした妨害行為であると思われる。いずれにしても予測を超えた事故であり、死者の立場あるいは被害を受けるかも知れない立場の者からは迷惑千万であり、そのような殺人行為は断じて許すことが出来ないものである。

 米国の事件対しては米国ならびに国際社会は、テロ行為を行った集団を証拠で固めて特定し、罪に相当する罰を与えなくてはならない。新宿・歌舞伎町マージャンゲーム店への放火殺人事件に関しても、犯人を速やかに逮捕しなくてはならない。

 現代社会は犯罪者の逮捕を難しくしているが、その原因が警察の基本的姿勢の乱れ、怠慢からきていることが多い。米国のハイジャックとビル突撃事件も、世界に冠たるスパイ等政治犯罪捜査力を誇る米国の国家警察機構のタガが緩んだ結果といえなくもない。

 日本の自衛隊は、北朝鮮が発射したミサイルが三陸沖に達していたことを知らなかった。防空、国防と軍備を拡張しても、電子装備拡充してもそれで十分ということがなく、イタチゴッコの結果は、装備の無意味性が残ってしまう。

 米国のハイジャックの上でのビル攻撃殺人事件は、まずは徹底して犯人探しを行い、証拠で固めて犯人たちを捕まえることである。処罰はそれからのことであるべきだろう。

 この事件を米国政府当局は戦争ととらえているようであるが、その戦争の相手はどこになるのであろうか。国家の威信をあまりに傷つけられた腹いせが不確かな「犯人集団」への湾岸戦争と同じ攻撃となってはならない。

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社説・知識と知識を結びつけて新しい商品をつくる(01年9月8日号)

 日本の経済が規模を拡大できないでいる上、株価が低迷する状態は何を意味しているのか。これが底なのか、これからさらに底があるのか、先が見えなくなってしまった。世界経済も低迷期に移行しているし、アメリカ経済の動向は楽観論よりも悲観論の方が優勢である。この状態が世界経済の長期的波動の中にあって、底の方向に向かっていてそれが60年周期の恐慌の方向にないとは言い切れない。

 自動車、電気機器、パソコン、半導体製造など基幹産業は、アジアの途上国への技術移転が可能にする社会基盤の変化に伴って、部品の調達だけでなく製造基地そのものを順次日本から移転する傾向が顕在化している。生産地と生産体系の変化が、日本国内の工場の在り方に影響し、工場の縮小あるいは閉鎖となって出現し、人員の削減が今後大量に行われる。ものづくりを中心にした経済は国の壁を超えており、物と人が迅速に世界を往き来する時代に、地域経済に過ぎない日本という地域に固執していられなくなったのは事実であり、こうした事情を全ての人々が理解し、認識にしていくことは重要事項である。

 同じ事態はアメリカで1980年代におこった。経済がサービス部門の割合を大きく高めてきている状況下で、旧来型のものづくりに固執して、国と経済を考えるのは時代錯誤である。ものづくりにしても在り来りのものを営々と作り続けるのでは、途上国への技術移転が恒常化し、途上国の事業者あるいは生産事業場が日本と同じ物を低価格でつくり、供給する状況下では、国内企業は安穏としていてはならない。いい時代と対比して計量器事業の面白みがなくなったとして、商売を畳む事業者が散見されている。やけのやんぱちなのか、潔いのか判断しにくいが、商売はしにくくなっている。

 日本の自動車や電気機器などの産業から大量に排出される「余剰労働」がどのように産業社会に吸収していくのか、課題は多い。労働の性質が知識化し、専門知識を保有した労働は就職機会に事欠かない現代の日本は、新しい産業社会の入り口に立っている。

 1980年代のアメリカで発生したリストラの過程で、数万人の知識労働者が別の事業所で専門知識を生かせる新しい仕事に就くことができた。日本の基幹産業を含む産業社会で発生している人員整理が、別の産業で労働力需要に吸収されることが絶対に必要である。日本の経済構造に、はたしてそのような準備ができているか、というと心細い。しかしこうした状況下では、雇用保険を給付するよりも、ある産業部門の余剰労働力を吸収する新規産業を興す施策こそが得策であり、経済政策、社会政策等の面から見てもなすべきことである。

 現代社会は知識が経済の中心になりつつある。「事務所に出かけてみると、皆がパソコンをたたいている。それで仕事になっているのか」という疑問とも感嘆とも思える声を耳にするにあたって考えることがある。それは現代社会における経済の知識化である。知識、あるいは情報が経済の中心になっている現代社会の現実である。経済の全体がサービス化し、そこに占める情報の役割が増大し、知識と知識を結びつけて新しい価値や商品がつくりだされる現代社会を生き抜くには、豊かな知識と知恵がなければならない。

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社説・計量器のサービスビジネスとその範囲(01年9月2日号)

 計量計測機器は生産金額の面から映し出される姿、それを性格というならば産業機械に属する。すなわち生産性システムであり生産性向上のための機器である。これをはかり(質量計)に移し替えても同様である。はかりの場合には生産数量から浮かび上がる姿はヘルスメーターや料理用のはかりである。これらの生産数量は工場設備概念のはかりに比べて圧倒的に多い。しかし商品単価が低いので生産金額で見るとその姿は小さくなる。はかり(質量計)など計量計測機器の基本的な性格は、生産設備ということになるものであるが、ここに計量法が関わった場合に、計量法の検定証印付きあるいは基準適合証印付きのものは、全生産量の10%に及んでいないであろう。計量法の検定証印付きあるいは基準適合証印付き計量器が求められる計量の分野は、計量法が定める取引と証明の分野に限られており、生産設備と同一の概念のものは検定が求められない。

 検定証印付きあるいは基準適合証印付きの計量器が他の計量器と違って特別に高精度で性能がいいというものではない。取引・証明に関わって求められる性能を備えているということであり、当該はかりは手続きを済ましているということである。

 昔の度量衡法が計量器の全品に検定を課し、検定付きでなければ流通しなかったのと、現在の計量法の性格が違うところである。産業その他いたるところで計量と計測が広く実施される発達した産業社会にあっては、全ての計量器の性能を計量法の検定という手法で縛ることは困難であり、合理的ではないからである。自動車や電車や航空機などは整備を抜きにしては安全運行できない乗り物であるのと同じように、計量器またはかり(質量計)も点検と整備を求められるものである。産業設備と一体化したり、そこに関わる計量器あるいははかりは定期的な点検と整備があってこそ安全稼働するものであり、この種の全ての設備は保守・整備の体制が構築されている。

 計量器に関わるビジネス規模は、製造企業が初期生産する生産金額だけのものではなく、据えつけられたそれの保守・点検・整備に関わるビジネスが含まれる。この金額は明確ではないが、産業設備関係に関わる計量器の場合には、一般にはその設備が配意されるまでには生産金額の半分ほどの金額になるものと考えられる。これが計量器の保守・点検・整備等のサービスビジネスである。この概念に含まれるものに校正事業があり、ISO等の国際規格がこの種の費用の支出を求めている。

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