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それからのメートル法−ヤードポンド圏からの離陸支援を−   多賀谷 宏              

○切換達成国に見られる切換を助長した条件:

 

 それではここで先例となるメートル法切換達成国群に共通して存在していたと見られる共通条件、とくに新単位使用もしくは切換を円滑に周知・習熟させる上でプラスに働いた 環境条件としては何があったのかを見てみよう。その上でそれぞれについてアメリカの現状を比較考察し、好ましい条件について必要となる対応を以下の三項を中軸として見ることにする。

@国内の一般庶民層の生活水準や教育水準が可能なかぎり均質ないし、ほぼ同一水準にあ ることが望ましい。
 たとえば1950年代までにメートル法切換に成功した主要国はフランス・ベルギー・オランダ・スペイン・イタリー・ドイツ・オーストリー・スイス・ノルウエイ・スエーデン・デンマーク・トルコ・ポーランド・ギリシャ・中国・ロシア・日本となっている。これで見ると当時のこれらの諸国民すべてが「生活水準の均質性」と「ほぼ同一の教育水準」にあったかは別としても、この二つについて比較的に国内が平準化されていたという、いわば度量衡単位の切換に取組む国家にとって最小限度必要な環境条件が備わっていたとは言えるであろう。 

 それでは今のアメリカ国民はどうかとなると、拡大する貧富の差と生活水準の関係や、多民族国家ゆえの民族的均質性の関係については措くとしても、度量衡制度切換に際して欠くことのできない因子である教育水準の同一性についての不安は隠せない。一例を挙げれば「先進24カ国の15才の生徒を対象とした基礎学力の水準に達しているかどうか」について、2002年11月に実施されたユニセフの調査結果をみるとアメリカは18位と振るわない成績であったとされている。実情は日本も必ずしも誇らしい状況ではない気もするが、この調査では韓国・日本・フィンランドが1・2・3位を占めたと言う。どうやら教育水準の平準化 と云う事は多民族で構成される超大国ほど難しさを抱え、単一民族構成の小国ほど達成し易いと云えるのかも知れない。 
 しかし一般民衆の支持が不可決である度量衡単位の切換過程において、国民の最大多数層の中に習熟速度で大きなバラツキが表れないことが望ましいことからすれば、ここは最大の泣きどころとなる可能性がある。ただし例外は何にでもある。アメリカでもシリコンバレーのような住民の1/4強が頭脳労働者として世界から引き寄せられた人で占められているという特殊地域は、こうした切換に際してはむしろ牽引役にはなっても障害になることはないだろう。また一口にアメリカといっても広大な国土をもち、その地域差はかなりあるようである。 
 例えばアメリカ東部地区での4年間の滞在勤務を終え、最近帰国したばかりの私の知人夫妻からの情報(以下[情報NH]と略記する)によると、同じ米国内ではあっても、現地勤務で派遣された日本人と白人しか住んでいないようなこうした地域にあっては、住宅価格も高いが同時に公的初等教育水準も高く、自ら子女の現地教育を経て日本の公的初等教育の現状よりも遥かに充実しているとの印象を強く受けたようである。このような地域特性については、切換政策の具体化に先立って予め全米レベルで精査しておく必要がありそうであり。いや将来、場合によっては、こうした地域を「メートル法切換モデル特区」として積極的に活用することも政策立案の選択肢になり得るだろう。

A貿易・経済への国民の関心と理解が高く、国際協調意識が高いことが望ましい。 
 上記@に切換達成国の先例として記載された国々は、そのほとんどが周辺諸国と国境を接しており、国際協調もしくは通商貿易が欠かせないほど地理的・経済的相互依存関係が 深かった上、一国だけでは経済、食糧、資源的に自立しにくい環境下に在ったと言える。 
 人口3億7千万人を背景とする一大市場として、力を付けつつあるEU圏にあるイギリスの場合は、現在もほぼ上記の国々と類似の環境下に在ると考えてもよさそうであるが、それに比べて現代アメリカはどうかとなると、少数の知識層と大多数の一般庶民層の国際関係ないし外交問題に関する認識には落差が非常に大きいことが目立つ。一般庶民階層について云えば「世界の中のアメリカ」という意識が非常に薄まりつつあるようだ。例えば「全米ジオグラフィック協会」の調査(2002年5〜6月)では、世界地理に関する知識については もとより、社会情勢・宗教・政治・環境などに関する設問に対しても、調査対象の9カ国の 学生の中で米国が最下位の正答率であったと伝えられる。特に地理・地勢についての認識 が、ヨーロッパ各国のそれに比べて一般庶民の階層では際立って低く現れたことが、米国内の識者間でも憂慮されている。甚だしい例には18才から24才の若者に、太平洋の位置を聞いても知らない。`ユーロ'というヨーロッパの通貨があることを知らない、などの信じ がたい事例が記されている。 
 世界で最も強い影響力を持つ国アメリカで、国民の大多数に今の世界についての基礎知識が乏しい現状にあるとのこの報告は、アメリカ国民以外にとっても慄然とさせる響きを持っている。かつて地政学に新風を吹き込んだアルフレッド・マハン(1840〜1914)を産み、そしてこれに動的構成を吹き込んで「地政的構造学 (geopolitical-techtonics)」として、1980年代に「国力の比較論」・「シーレーン構想」などを展開したレイ・S・クライン等を輩出したアメリカでさえも社会の基盤層はこうした実状にあるとのことである。アメリカ国内でも教育というものの大切さが改めて問われている由縁であるが、その改善効果が実際に表面に出てくる迄には長い時間がかかる。とにかく軍事専門家やエリート的情報階層などにみられる突出した知識レベルの高さと、基盤層である一般国民のそれとの間には他の先進国にはない大きなギャップの在ることが特徴となっている。ではこうした背景の中での一般的な国際協調意識はどうなのだろうか。

 今日いかなる国家も世界経済の輪から単独で抜け出すことはできない。20世紀から21世紀にかけて急速に狭まった地球上では一国のみの独走は、ますます困難になることは自明であろう。然しこれまで外に対して、あれほど国際協調の重要性を訴え続けてきたアメリカが最近のメッセージでは、こうした視点が減少し、やや誤った米国中心主義というか“すべてアメリカが正しく善である”との風潮を土台にしていると見られることが多くなっている。時にはこれに議会や選挙民が同調しているかのように外から見られることもある。たしかに米国は自国だけでも2億人の購買力を持つ市場を構成できるし、また極端に長期に及ばぬ限り、それなりに対応できるだけの資源も自国内に豊富に保有している。こうした天与の条件や、「単に幸運に恵まれてきたに過ぎないことまでもが、誤った自信に変貌し国民各層に偏狭な世界観を植え付け、それが裏目に出て傲慢になってきた」と憂えるキッシンジャーの言が的を得ているのかもしれないし、あるいは逆に米国民の深層心理に横たわるといわれる「名誉あるモンロー主義」調の孤立主義への周期的回帰によるものだと する観測も確かに有り得よう。 

 このように当面目立つ現象を拾い集めると、どうしてもネガティーブなものが多くなる。しかしメディアを通して得た情報だけが真実を捉えているとは言い切れないことは私達が永らく経験しているところでもある。例えば国際協調面でアメリカが全く悲観的な状況ばかりかと言えば決してそうではない。ひと頃のような各種の国際機関から単独で離脱しようとしたり、これらの分担金支払いを何年も滞らせたりする例は、最近では殆ど無くなってきている事実などに、まだ一縷の希望を託すこともできよう。かつて、そうであったように、必要な時点には必ず顕れて敏速な行動に入る‘アメリカの良識’による決断の存在をここでは信じておきたい。

B合理的な社会制度改革への、保守的抵抗力が強すぎないことが望ましい。 
 一時的にせよ、経過的に見れば前記のメートル法切換達成国においても、切換に反対するいわゆる抵抗勢力は決して弱くはなかったし、その抵抗期間も短いものではなかった。また一般庶民階層は、どこの国においても本能的に今まで慣れ親しんできた日常の生活習慣の、それもかなりプライベートな部分にまで影響を強制されるものとして、度量衡単位の切換を反射的に拒否するものである。また関連する一般消費物資の流通業界や製造業界、はては国内の極右・保守グループなどの組織的反対があった事実には各国ともほぼ例外 が無い。しかし行政が強固な意志をもって、時間(多くは数十年、時には50年規模の世代交代も含めた永い時間)を掛け、国益のみならず社会的公益としての必要性を説き、他方ではプライベート領域における旧単位使用の猶予措置など必要な行政手段を抜かりなく積み重ねることで、つまり言い換えれば“やっとのこと”で切換を達成し得たのだという正直な事実が、いずれの国の歴史的経過にも共通して存在している。 
 いかに国益につながるとは云え、アメリカ・イギリス両国民にとって長い慣習単位であ るヤードポンド系旧単位に執着があるのもわからなくはない。特にアメリカの場合せっかく広大な国土に、しかも様々な国からの移民(中には旧本国での度量衡単位を捨てたケースも)が結集して、やっと200年かけて定着、親代々その地域基盤で馴染んできた単位を 、との意識も強かろう。こうした心情的な部分に対しても十分な心づかいをもって臨む必要があることは云うまでも無い。またアメリカ固有の事情としてみれば、銃規制への根強い反対運動と規制法案が議会でいつも流される経緯から類推すると、日本人にはまだ理解が充分でない「自由と権利」への彼らの特別な意識や背景もあろう。例えば広大な原野に、孤独や不安と闘いながら住んできた開拓移民以来の伝統意識や、そのような環境下での生活の安全・護身手段確保などへの自立意識には特別なものがあろう。しかしこの問題に ついても200年前と同じロジックが、今日通用する筈もないことは国内でも理解が広がり つつあるようだし、特に人口密度の高い大都会地域での、それも学校など教育機関での事故多発が世論をかきたてている。最近では全米随一の安全地帯として、かつ永らく東部随一の知的エリアとして知られてきたハーバード大学周辺にさえも危険地帯が顕在化していることが憂えられている。この課題も根本的解決にはまだまだ時間が掛りそうである。  

 またこれはアメリカの選挙制度とも深い関連があるとの話も聞くが、現在まで銃規制法案とともに国民皆保険制度設置への変革ですら挫折している状況を指して「変わらないアメリカ」と評する人もいる。私には建国以来、必要な変革には大胆に手を着けてきたという歴史的経過に見るかぎり「全く変わらないアメリカ」は考えにくい。しかし前にも記したように変革に着手するにはそれなりの大きなエネルギーとコストが必要であり、それとは逆にこの度量衡単位の切換を阻もうと作用する障壁は数多く存在し、しかもそのどれもがかなり高いハードルとなって最終決断を遅らせているようである。 

 以上のべてきた各項を総括的に見ると、メートル法への切換において現代アメリカでは、世界最強最大の「国防分野」が切換の最大の足枷であろうことは誰にも容易に想像がつく。まずもって膨大な軍事施設やシステムの大幅な改造、場合によっては新たな施設設備投資が必要となるほか、設備の切換に要する期間の長さ、そして最大の旧単位ユーザー層を構成する最前線の兵員クラスの再教育・再訓練とその所要期間、この二つが国防力を高 水準で維持する上での負の影響力として、並大抵の決意では切換着手に向かえない躊躇をもたらしていると言えよう。 

 ちなみに日本の場合を振返ってみると1世紀も時代を遡るということで幾つかの幸運も あった。先ず江戸時代から庶民の識字率は諸外国に比しても極めて高く、その上、学校教育の始まった明治以降はメートル法による初等中等教育が開始され、新たに徴集された兵員のほとんどが旧尺貫法とメートル法の換算にもある程度、習熟していたという素地があった。これをベースに陸・海軍とも19世紀の末頃には相次いでメートル法切換を開始、以 来メートル法による一貫した兵員教育がなされた。当時は徴兵制度下でこの教育を受けた多くの人々が一般社会に復帰後、今度はむしろメートル系単位の普及拡大に実質的にも大きな役割を果たしてきた事はいうなまでもない。また当然のことながら国防軍事施設の投資額も現在に比し遥かに少ない上、切換に際しても現代の先端的国防施設とは比べるまでもない小規模・単純システムにあり、国民負担率の相対的低さも在ったことが切換コスト を小さく押さえていたといえよう。また国際的動向への国民的関心の度合いについてはペルリやハリス等によって開国させられて以後、日清・日露戦役を経て、政府の殖産振興・富国強兵政策にあおられたこともあって、良くも悪くもアジア・太平洋地域についての国民 の対外的関心は早くから高かった。さらに‘小さな島国’日本は国内資源に乏しく対外依存度が極めて高かったことから絹織物・玩具など二次加工品を中心に、早くから輸出貿易 による外貨獲得策に頼らざるを得なかったという切迫した状況もあって、国民各層にアメリカや欧州諸国をはじめ周辺海外諸国への関心を高めさせる要因となっていたことも幸いしている。

 メートル法切換に対する日本での反対ないし消極的抵抗勢力としては右翼関係者、中高年、専業主婦、輸入貿易関係者などがあったが、右翼関係は軍自体の早期切換達成により論理的な後盾を失い、また他の領域においても時間の経過による換算の自然習熟と、各層における実力者の「世代交代」が切換と普及を早めていったという経過があった。さらに他方では旧い尺貫系の単位のものであっても個人あるいは私的な面での使用については規制を外したり、猶予期間をしばしば延長させるなどして対応したことにより、これも世代交替による反対運動の自然消滅を気長に待つ形で納まるべきところとなっている。  

 種々述べてきたように日米間では単に国家としての国土面積や人口規模の差だけではなく、100年という時間軸を挾んでしまった結果、切換に必要な設備投資だけをみても規模と質と絶対額において、貨幣価値の変化を越える桁違いの大きな落差を生んでしまったことになる。度量衡単位の切換にとって‘無為無策に過ごされた’とまでは言えないまでも‘先送りされてきた100年’が、切換に際して必要とされる投下資本のうえで如何に高くついたかが冷酷に示される結果となり、この状態の放置がどこかの時点で打切られるべき時期にきていることを示唆している。  

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