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日本計量新報 2017年4月23日 (3146号)

朝永振一郎の高潔さと湯川秀樹と小柴昌俊の仕事の比較

日本の現代物理学の父である仁科芳雄は朝永振一郎を理化学研究所に誘った。仁科は朝永のことを小柴昌俊に「彼は頭がいい、特別な人間だよ」と語る。小柴は朝永と理研の研究室などで深い交流がある。アメリカロチェスター大学に留学するために「成績は良くないが、バカじゃない」という自分で書いた推薦状に朝永に署名させた。朝永は苦笑した。小柴昌俊の媒酌は朝永振一郎夫妻がした。そのような縁があった。湯川秀樹は朝永振一郎と旧制三高と京大理学部の同期である。湯川は高等学校時代の朝永の印象を「体はあまり丈夫ではなかったが、実に明瞭で緻密な頭脳の持ち主だと直感した」と述べている。

朝永振一郎は酒好きである。『朝永振一郎 人と業績』著作集別巻3に掲載された小柴昌俊の文章で確認できる。朝永は人格高潔で激することがなかった。嫌なことにはユーモアで対応した。湯川秀樹と一緒に講演した芥川賞作家の北杜夫がいう。湯川が北の冗談に「なにお」と気色ばんだ。北の冗談はなれていないと笑えない。三島由紀夫は本気で怒った。小柴昌俊が朝永の人柄の良さをNHKの特別番組で語っていたのは印象深い。朝永の人柄の良さは格別のものであった。朝永の著書『庭にくる鳥』にもそれが現れる。計量研究所長から工業技術院長となった朝永の類縁の朝永良夫はもまた同じ性質であった。

朝永振一郎は東京教育大学長(1956年から1961年)、日本学術会議会長(1963年から1969年)などを務める。仁科芳雄は朝永振一郎にそのような役職で<RUBY CHAR="","わずら">わせないで研究と後進の指導・育成を望んだことだろう。湯川秀樹も京都大学基礎物理学研究所初代所長(1953年)、日本ユネスコ国内委員会委員および日本物理学会会長(1955年)、原子力委員会委員(1956年)の職にあった。湯川秀樹の名が原子力委員会に利用されていることが明白であったから湯川は在任13カ月で辞任する。原子力発電のための独自技術の開発があってこそ安全に結び付くという湯川の主張は無視された。米国から原子力発電設備を輸入することが決まっていてそれを承認するための委員会なのであった。

朝永は湯川ともに戦中には原子爆弾開発のための研究組織に組み入れられていた。戦前・戦中には京大研究陣が原子爆弾開発に関与した。理研はもっと突っ込んでいた。陸軍航空技術研究所長は航空本部付き技術中佐に対し1940年(昭和15年)4月にウランを用いた新型爆弾の開発研究を命令した。東京理化学研究所の大河内所長に秘密裏に研究依頼がなされ、1941年春ころ仁科研究所で原子爆弾の理論的可能性の検討に入った。1942年に海軍技術研究所でも原爆研究「原子核物理応用の研究」が始められ仁科と長岡半太郎は理研の代表として参加する。仁科は陸軍に依頼されていたので海軍の場ではあまり発言しなかった。

原子核や素粒子の実験をするための加速器は国内では1936年に大阪大学で建設が始まった。第2次世界大戦前、戦中に日本国内に設置された円型加速器(サイクロトロン)は理化学研究所に大小2台、大阪大学に1台、京都大学に1台(建設中)があった。湯川秀樹は1936年に大阪帝国大学理学部助教授になっている。1932年京都帝国大学講師となり、1933年には 大阪帝国大学講師兼担。1939年に京都帝国大学教授。

核爆弾のことはさまざまに構想されていた。ナチス・ドイツに先を越されることを恐れた亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらが、1939年に同じ亡命ユダヤ人のアインシュタインの署名を借りてルーズベルト大統領に信書を送ったことが契機になってアメリカ政府の核開発が動きだした。

アメリカ、イギリス、カナダは原子爆弾開発・製造のために科学者、技術者を総動員してマンハッタン計画を推し進める。19396月にはウラン235を爆発させるには数kgから10kgで十分だということをイギリスのバーミンガム大学のユダヤ系物理学学者が算出した。開発は急であった。1945716日には人類史上初の核実験がなされ、原子爆弾が製造され、86日に広島市に89日に長崎市に原子爆弾が投下された。レオ・シラードらは19453月にドイツが原爆を開発していない確証を得たのに合わせて日本への原爆投下に反対する活動をおこなっていた。

日本における核開発の動きはどうであったか。仁科研究所のある研究員によって1943228日に原爆の数値計算がされた。翌年に仁科研究所はウランの分離によって原子爆弾が作れるだろうことを陸軍に報告した。陸軍航空本部は直轄で研究を続行させる。アメリカで原子爆弾開発「マンハッタン計画」が始まった翌年のことだ。仁科は六弗化ウランの製造、ウラン235の臨界量の計算、熱拡散法によるウラン235の分離装置の開発などの研究員を集め原子爆弾の開発を進める。1945年(昭和20年)のアメリカ軍の空襲によって設備は破壊された。連合国軍最高司令官総司令部(GHQSCAP)は、理研の2台のサイクロトロンを同年11月に東京湾に投棄した。仁科は1945815日の玉音放送のあとで原子爆弾の解説をした。

アインシュタインはルーズベルト大統領への信書に署名していたものの政治姿勢が警戒されたためマンハッタン計画が始まったことは知らされなかった。科学と戦争と兵器ということでは科学者や技術者は否応なくこれに動員される。日本初代の国際度量衡委員で世界に名をはせた田中館愛橘は貴族院議員をしていたときに反戦の演説に無心に拍手していたのであるが、世の中には田中館が飛行機開発などを先導したことから戦争協力者だという非難する者がでてくる。

朝永振一郎は物理学によって原子爆弾がつくられそれが使われて人の命が奪われたことに心を痛める。原爆の製造・実験・使用に反対する平和運動にも力を入れた。「公害や原爆をもたらす科学は、悪いものだという人もいますし、一方で科学は私たちの生活を便利に豊かにしてくれるとても素晴らしいものだという人もいます。しかし科学には人間を不幸にも、幸福にもしない第3の見方があると思うのです」と述べ、雨戸の節穴から差し込む光によって、庭の景色が逆さになって障子に映し出される風景や、顕微鏡から垣間見る小さな生き物の不思議な行動、子供のころ心惹かれたあの瞬間の驚きを追求することは、だれを不幸にも幸福にもしない。「心惹かれる不思議を少しずつ掘り下げていく、そういうところに科学の大切な意味の一つがあります。不思議だと思うこと、これが科学の芽です」と述べる。

品格高潔で良い人柄にして教養豊かな人は組織の長になる。持ち上げられてのことか、やむを得ずかはあっても役職につかされる。仁科芳雄が理化学研究所でした仕事を朝永振一郎がしたならばと考える。小柴昌俊は湯川秀樹や朝永振一郎とは別の才能によって、つまり研究体制と実験装置をつくるなど研究を総合指揮してニュートリノの検出という偉業をなした。「空間が歪んだことによる長さの変化を光波干渉計でとらえる」研究などは小柴昌俊の手法と同じだ。個人の特別な才能に依拠するか、研究陣と研究体制に依拠するかといったことだが、現代科学は大掛かりな実験装置をともなうことが多い。個人の才能が秀でていればそのことをこそ大事にしなければならない。レンゲ草の花は美しいからと摘んで活けても萎れる。「手に取るなやはり野におけ蓮華草」の言葉が浮かんでくる。

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