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日本計量新報 2008年5月18日 (2724号)より掲載

私の履歴書 鍋島 綾雄  

日東イシダ(株)会長、(社)日本計量振興協会顧問、前(社)宮城県計量協会会長

目次

14 未熟な経営者としての成功と失敗 2742号、2743号

 1959(昭和34)年の暮れに仙台へ移った私は、1960(昭和35)年1月の総会で伊藤さんに最後の花道として社長に就任してもらうよう提案し、私は専務に就任した。そして日東で私が先ず手がけたことは、月に2回しか休みがなかったのを日曜・祭日は休みにしたこと、中卒の新入社員2名を日給150円(時給ではない)で採用したこと、中古の1トントラックを購入して運転手を採用したことであった。

 半年もたたない1960(昭和35)年4月、チリ地震で三陸沿岸は大津波に襲われ甚大な被害を蒙った。塩釜・石巻・気仙沼の魚市場や水産加工場の台秤は海水に浸かって使い物にならなくなった。丁度買ったばかりの中古の1トントラックで浜との間をピストン輸送して修理をするはかりを運んだ。思いがけないこの特需が、若い力で積極経営をやろうとスタートした私に大きなプラスとして作用した。

 そしてこのことがキッカケで修理ハカリの流通経路を変革し、業界でも珍しいスタイルを確立することにつながった。

 通常、ハカリの修理はユーザーが各地のハカリの販売店へ持ち込み、販売店から修理業者に送られ、修理が終わればその逆の経路で返されていった。しかし私は、三陸漁場というハカリの消耗の激しい(半年毎に修理が必要な)市場があるという利点を活かして、トラックで修理を集めて廻るというユーザーダイレクト営業を展開することにした。毎週検定し終わった修理品をトラックに満載して三陸漁場に配達して、帰りには修理をするハカリを満載して帰るという繰り返しであった。

 業界でも珍しいこの修理の営業はつい最近まで日東の収入のベースを構成する重要な部門として業績の向上に貢献してくれた。

 もう一つ取り組んだのは台秤の製造である。全国のメーカーを歩いたお陰で、何処にどういう材料があって何処のメーカーの製造工程が優れているか熟知しているつもりだったので、台秤の製造には自信があると自惚れていた。20数人の規模で相当の台数を造る体制を作り、事実相当な台数を造った。造った台秤の売り先は農協で、秋の米の収穫期になると飛ぶように売れるが、売り逃がすと翌年の秋までストックになる。

 見込み生産というのは材料を仕入れて倉庫で寝かし、製造してからも在庫で寝かし、売れてからも代金の回収まで又時間がかかる。

 修理は預かった時点で売れているのと同じだし、材料費もかからない。製造は材料を仕入れて金になるまで半年も1年もかかり、資金のないものがやるべき仕事ではない。若気の至りで自信満々で取り組んだが、台秤の製造は失敗だった。

 これに懲りて工場は受注した一品料理的な製品の製造に切り替え、見込み生産を止め、受注生産の原則を今日まで守ってきている。

 そしてイシダ・鎌長の東北地区代理店契約をして販売会社としての性格を強めて行くことになる。

(つづく)

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