計量新報記事計量計測データバンク会社概要出版図書案内
2014年11月  2日(3032号)  9日(3033号)  16日(3034号)  23日(3035号)
社説TOP

日本計量新報 2014年11月23日 (3035号)

計測技術と計測の考え方とその実物としての計測器

何時くるかわからないが必ずくる。来たときには人手を掻き集めて対処しなければならない。節分を過ぎ、寒いなかにも春の気配をどこかに感じる曇り空を映す海にニシンが湧くのは3月の声を聞くころだ。ニシンが群来するとすべてのものが動き出す。学校は休みとなり、東北の青森、秋田、山形などからの出稼ぎのヤン衆も含めてたち働くその様子は狂乱といってよい。
 鮮度がすぐに落ちるニシンは水揚げされるとすぐに加工される。腹子はカズノコとなり、オスの白子もとられる。頭部を除去して身欠きニシンに加工する。加工の手が追いつかないからニシンを茹でて油をとり、その身はニシン粕(かす)にされ、これは肥料になり関西地方に送られて綿花栽培になくてはならなかった。
 浜の生業(なりわい)はニシン漁であった。そのニシン漁はわずかの期間である。ここに労働を集中的に投入する。ヤン衆を集め子供たちをかり出してニシンの漁獲とその加工に打ち込む。夜も寝ずに体力の続く限りの労働であった。動力を用いる機械は船にもどこにも付いていない。すべてが人力によってなされていたから、ニシンが来るときにあわせて人を集め、その人が死にものぐるいで働いた。
 北海道のニシン漁の漁獲量は1897(明治30)年に97万5000トン(130万石)を記録した。1957(昭和32)年ころを境に北海道ではニシンはほとんど獲れなくなった。ニシン漁の漁獲高の推移をたどると、建網(たてあみ)による漁獲法を用いるころから急増する。アイヌはニシンをタモ網を用いて自分が食べる量だけを獲っていた。そのニシン漁をビジネスに変換したのが北海道にきた「和人」であり、湾のすべてを覆うように建網を入れるようになって漁獲量は増えたが、やがてニシン漁は北海道では漁業として成立しえない状態になる。
 江戸期に松前藩はニシンの大量の漁獲を制限することをしていたが、ニシンで稼ぎたい網元とのやりとりが続いていた。乾物の身欠きニシン40貫(約150kg)を1石として、ニシンによる年貢が納められた。生魚の場合には、身欠きニシン40貫をつくるのに必要な生のニシン200貫を1石と換算している。
 よくできた機械は人の苦役労働を代わってすることができる。人の労働の何人分もの労働をすることができる。人がする労働の時間を大幅に、あるいは極限に近いほどに短縮することができる。機械が動く場に人がいない状態が増えている。機械の動作を指揮しているのは人である。人の働きは、機械と人の労働を含めて、それが目的に適合して上手く運ぶようにすることである。
 ここに計測技術があり、計測の考えがあり、あるいは計測器がかかわるかも知れない。計測の考え方、あるいは計測技術は人の知識のなかにある。計測器はそれを外に排出したモノとして存在する。ヤン衆が働いたニシン漁は建網と人とで構成されていた。いまの時代はパソコンとインターネットといった機械要素と人の働きでできあがっている。計測技術や計測への考え方といった人の知識や脳のなかにあるものと、計測器といった人の脳を外に移しだした器物をどのように働かせるかが、いつでも問われる。計測器という単純な器物だけを思い描くのではなくて、計測システムということでとらえることも大事だ。

※日本計量新報の購読、見本誌の請求はこちら


記事目次社説TOP
HOME
Copyright (C)2006 株式会社日本計量新報社. All rights reserved.