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日本計量新報 2012年6月17日 (2921号)

正しさの確認作業の妨げをする「不確かさ」という用語

数字がモノを語ることは本当だろうか。日本の内閣支持率は小泉純一郎内閣が劇場型政治を演じた事例を除くと、就任直後のご祝儀人気ということでの高い支持率の後に徐々に支持率を下げて10%程度に落ちる。この数字の動きは内閣が悪いからということではなくて国民の内閣に対する気分感情の動きの一般法則としてみることができるのではないか。何やかやとさまざまな事柄がテレビやラジオや新聞やインターネットを通じてかしましく報じられると、その報道の度合いにつられて聞き手の頭脳は飽和してしまい、強く影響されているといって良いようである。そのような視聴者の意識調査の結果が世論として扱われ、またその結果が絶対であるかのように、是非を断じるという状況にあるのが現在の日本だ。

 現代の日本人の言葉も正確さを欠いていて怪しい。テレビの天気予報の豪雨予想でとくべつに突きでた棒グラフをみて、若いアナウンサーは、「傑出」していると述べた。傑出には優れていることの意味が含まれるので、突出という言葉を使わなくてはならなかった。若い人々だけではなく年配の人々もがカタカナ言葉を多用する。その用語を使って会話が通じるのか、と疑問に思うことが多い。政府筋から発せられる用語や経済用語にもカタカナ言葉が多いのはこの方面の文化を米国から輸入しているからなのだろう。

 日本には日本の言葉があり、難しい漢語もカタカナ言葉も平易な日本の言葉に直して考えてみたらよい。日本古来の言葉は総じて和語に至り、和語は同じ言葉で幾通りかの意味をもつという不都合はあっても、その言葉を聞いて意味がほとんどわからないということはない。言葉は民族であり言葉は国家であるということで、ポーランドはロシアやナチスドイツに占領されるなかでも密かにポーランド語を保持したことによってポーランドという民族と国家を復興させることができた。国の機関やテレビ、ラジオ、新聞が間違った言葉やカタカナ言葉を思慮なしに用いることは民族の文化を破壊することであり、カタカナ言葉にまみれた日本語を使う学者は罪人である。
 
 計量計測の世界でもなんだかわかりにくい、と考えさせられる言葉を用いている。その一つに「不確かさ」がある。

 まず「不確かさ」の概念を確認しよう。「不確かさ」とは、1990年代に入ってから利用されるようになった、計測データの信頼性を表すための新しい尺度となっている。従来は「誤差」や「精度」といった概念が計測の信頼性を表すために用いられてきていたが、技術分野や国によってこれらの使われ方がばらばらだったために、国際度量衡委員会のイニシアティブにより、計測データの信頼性を評価・表現する方法の統一に向けた取り組みが行われ、1993年に、計測に関わる主要な7国際機関からの共同出版の形で“Guide to the Expression of Uncertainty in Measurement(計測における不確かさの表現ガイド)”が出された。その基本的な考え方は、さまざまな不確かさ成分を、標準偏差の計算という通常の統計解析によるAタイプ評価、データ以外の様々な情報から、標準偏差に相当する大きさを推定するBタイプ評価、のどちらかの方法で求め、これらを合成することにより、全体としての不確かさを求めるものである。不確かさは、計測データの信頼性が重要な意味をもつ様々な技術的、学術的文書の中で利用され、ISO 9000(品質システム)、ISO 17025(校正・試験機関の能力に対する一般的要求事項)などの規格ではその評価が必須のものとして要求されている。

 精密さ、精度という言葉は日本では意味がそれなりに通じるが、いまの計量制度に関係した世界が使う言葉の「不確かさ」の意味を正しくうけとることができる国民は100人に1人いるかいないか、あるいは1千人に1人いればよいくらいであろう。「不確かさ」は日本語を使いながら日本人に意味を伝達できない言葉の代表となっている。その必要性から生まれた概念であるにもかかわらず、「不確かさ」という表現は、概念の本来の意味の確認や普及のための妨げになっている。

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