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日本計量新報 2011年7月10日 (2877号)

「実感」に欠けた政府の東日本大震災復興施策と放射能測定

 東日本大震災復興への基盤を築く時期はとっくの昔に過ぎているのに、日本国政府は実質上は何もしていないし、何もできていない。地震による津波で、冷静に考えれば当然のごとく、しかし甘い想定の下では「予測に反する」原発事故が発生した。福島県の原発周辺地域は、人が住めないような状態になった。


 奇をてらう政府は、まだ学問として定着していない「失敗学」の提唱者を座長とした東京電力福島第一原発事故をめぐる第三者機関「事故調査・検証委員会」を、5月に設置した。「失敗学」はエキセントリックな学問の域を出ていない、と決めつけるのは的を得ていないかもしれないが、政府の思考と行動はエキセントリックそのものである。東日本大震災の頃、総理大臣の椅子に座っていることが目的である無能な首相がいたと、歴史の記録と人々の記憶に残るであろう。日本首相の在り方を「失敗学」が分析し評価したらよかろうが、それほどの切れ味と能力が失敗学にあるかどうか。


 日本国の首相と閣僚達に欠けているのは、被災者の窮状と被災のすさまじさを「実感」することである。被災地に半月ほど滞在させて、被災者の窮状を目の当たりにしながら救済の指揮を執らせることが「実感」を下敷きにしたまともな行政を実現することにつながるように思う。そうすれば、委員会を作って遊んでいる暇はないと気が付くはずだ。この期に及んで「失敗学」を用いて、政府と東電の怠慢を妙な形で表現しようとするなど子供じみた政治ごっこにすぎない。


 菅直人首相は6月、「がれき処理が8月までかかる」という理由で退陣を先延ばしした。しかし被災地に散乱しているモノは「がれき」ではない。現地に支援にはいった人々は、口を揃えてここにあるモノを瓦礫と表現することはできない、それは被災者たちの生活の生々しい跡であり、生活そのものが残っているからだ、と述べている。西岡武夫衆議院議長が5月19日の読売新聞に寄稿した首相への退陣要求でも「がれき」という言葉は用いず「災害による破損物」と述べている。被災地への想いは、こうした細かな表現にも表れるのである。


 国民の暮らしの営みへの実感力の乏しい現首相は、虚ろな涙眼でウーとかアーとか野太い音で言葉をつなぎ、言葉の冒頭では「まあ」と言い、「少なくとも」という表現を繰り返す。しかし、時に国会での答弁などでカッとなると、元気だったころの覇気をみせて語気が鋭くなる。被災者にとって欲しいのは首相のその覇気である。福島原発の事故対応の責任者としてパフォーマンスを兼ねて現地に出かけた首相が、溶けかかった原子燃料に真水の代わりに海水をかけることに躊躇している間に、現場の責任者である東電の所長は委細かまず海水をかけたことは正しいことであった。生かじり知識を振り回して威張る管氏の姿は裸の王様そのものである。それが日本の首相であるのだから、日本の政治は「失敗」であるといえる。

 

 福島原発の被害にともなって発生する放射線は重大な問題であり、冷静にして正しい対応が望まれる。放射線量の測定に関しては、測定の場所、環境、測定機器とその整備、測定者の技術の状況と訓練と知識、放射線の何を計っているのか、測定の総合的信頼性の確認など、考慮すべきことが多い。専門家たちは現在の測定の信頼性を、必ずしも保証している訳ではないことを確認しておきたい。放射線量の測定の信頼性は確かなのか。その「実感」が、計測の専門家は持てないままなのである。


 被災地への復興支援にしろ放射能対策にしろ、「実感」を持てるだけの惜しみない努力をしなければ、成果は生まれない。政府は、そのことを再認識するべきである。

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