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日本計量新報 2010年1月17日 (2805号)

その時代そしてその場所ですべき仕事に愚直に打ち込む

仕事は自ら望んで就くようにみえても、社会の制約を受けて選択している。技術を例にとっても、その時代の状態という制約がある。
 例えば、50年前にコンピュータの仕事を選びたいと考えても実現することは難しかった。今では、プログラマーや半導体開発の技術者になる人を、社会が枠をつくって待ち受けており、中でも、基本ソフトの開発は、ビル・ゲイツが巨大な富を得たことが示すように、夢のある人気の仕事となっている。
 技術の進化のスピードは速い。インターネット利用が日常に組み込まれると、社会が検索エンジンなど検索のシステムを基本ソフト以上に要求するようになり、ビル・ゲイツでさえ、この方面で決定的な遅れをとった。
 時代ごとに人気の職業や憧れの職業があって、その職業に就くと人は「成功した」と思う。一般の人が努力すれば就くことができる憧れのの職業の代表として医師がある。志す者は、まず医学部に入学する試験を突破するために「学業」を積むことになる。
 しかし、せっかく医師になっても病院に勤めた人が必ず幸せになるかというと、世間一般の憧れと現実は別であることに気が付き、自分の選択が正しかったかどうか疑問に思っている者も少なくないのではないだろうか。
 養老孟司は、興味は仕事をしているうちに生じてくるのだという。この人の一番の関心であり喜びとしていることは、虫取りである。解剖学とか脳科学の分野で世間に認められるようになったのは、臨床医にならない方法として解剖学の分野に従事したからである。特別に選んだ仕事ではない解剖学の仕事を普通にこなしていただけのことだと思っているという。
 職業の選択は自分探しであるからといって、無理に自分に合う仕事を探そうとするのはやめた方がよい。自分がどのような人間であるかは、どのような仕事をしたかの結果で判るのである。目の前にある、自分がすべき仕事に愚直に打ち込むのが大切である。
 計量計測の世界での仕事も同じことである。 日本人で最初に国際度量衡委員になった田中館愛橘は、武家としての仕事がなくなったため、陸奥の国、二戸郡福岡町から親子して1872(明治5)年に上京した。
 慶應義塾で英語を数カ月学び、その後に外国語学校の一部の英語学校に入学する。1876(明治9)年には、NHKドラマ「坂の上の雲」に登場した秋山真之、正岡子規、夏目漱石が籍をおいた東京開成学校の予科3級に編入、1878(明治11)年9月に東京大学理学部に入学した。物理学をメンデンホール(米国)と山川健次郎から、機械工学をユーイング(英国)から、また数学を菊池大麓から学んだ。1882(明治15)年7月に卒業して準助教授に、1883(明治16)年には助教授になった。留学を経て、1891(明治24)年に東京帝国大学理科大学教授に就任した。
 1878(明治11)年に東京大学理学部に入学したのは4名で、入学後に藤澤利喜太郎が数学、隈本有尚が天文学、田中館愛橘と田中正平が物理学に傾いていった。
 彼らは国家に役立つために、武士がお家のために命を捧げるのと同じ思想によって、欧米の圧倒的に進んだ学問を習得しようと懸命に学んだ。この4名はメンデンホールの指導の下で1880(明治13)年に東京の重力を測定、1881(明治14)年に富士山頂の重力測定をしている。後に、物理学者となり大きな業績を残した長岡半太郎も、田中館愛橘の手伝いをして重力測定をしている。田中館愛橘は、重力測定のほか地磁気の測定や物理学が求める基礎的な仕事に従事した。
 時代が下って1922(大正11)年に東京帝国大学を卒業した芝亀吉は、物理定数の測定と確定の仕事に従事し、米田麟吉は、電流など電気量の絶対測定をし、それと連動する質量測定の精密さを向上させる仕事にも従事することになる。
 山川健次郎、菊池大麓、藤澤利喜太郎、隈本有尚、田中館愛橘、田中正平そして長岡半太郎、さらに芝亀吉、米田麟吉は大きな業績を残した。それは自ら望んで選んだ仕事というよりも、その時代、そしてその場所ですべき仕事に愚直に打ち込んだことによって成し遂げられたものである。

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