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私の履歴書 齊藤勝夫(第18回計量賞受賞者、元千葉県計量検定所長、元流山市助役、現千葉県計量協会・計量士会会長)                 

私の歩んだ道−公務員として信念を持って

第2編 度量衡法末期の実状

 当時の社会・経済状勢を述べる

 前述の第2編度量衡法末期の実状の実話の記述は、苦労して経験した者のみが語れる難行修行である。「国敗れて度量衡法計量制度を守る」と、いみじくも、歴史的、大観的視野から断定的に申しあげましたが、この「私の履歴書」の欄を関心をもって読んでおられる方には、私と同年輩の同僚的な方が少なくなっている今日、戦中、戦後の初期の状況を知らない方には、どうか、次のような
社会状勢を頭の中で、描いてみていただいて、少しでも実感をつかんでいただいたら幸いと思い、当時の社会・経済状勢をかいつまんで述べてみることにします。
米国GHQによる間接統治
 まず第一には、政治国家体制ですが、1945年(昭和20年8月15日)
敗戦後、米国を主要国にして、8ヶ国による連合国日本占領軍による軍政国家で、米国GHQの統治下におかれたが、日本政府は、そのまま、形をのこしている間接統治で、新憲法(改正)制定の都合からも天皇制を在置している姿であった。国民側からは、新円の発行と財産税の重税の新設と、食糧危機から農家に対する強制的供米の強行等、敗戦のみじめさと辛さを知る日々であったが、軍政下ということと旧警察機構が生きていたことと、日本国民の遵法性と敗戦の経験がなかったことから、治安状況も心配していたより保ち得ていた。

日本国憲法が成立

いうまでもなく、ポツダム宣言(1945年7月26日)を受諾して、無条件降伏したときから、旧帝国憲法は死文化していることはいうまでもないが、憲法改正は、「破棄」(革命)・「廃止」・「停止」・「侵害」の区分と憲法自身の定める手続きによって変更を加えること、すなわち、憲法のある条項を修正し、削除し、新しい条項を追加する改正とに分類できるが、戦後、総司令部(GHQ)から昭和21年2月10日に示された「マッカーサー草案」に基づき、同年3月6日、ときの幣原内閣により発表された「憲法改正草案要綱」に則して、ひらがなの「帝国憲法改正案」として、6月20日に第90帝国議会に提出され、若干の修正を経て、昭和21年10月7日成立し、日本国憲法は、昭和21年11月3日公布、昭和22年5月3日から施行された。

完全に統治権と主権を回復してはいない

 しかし、日本国が独立国になって完全に統治権と主権を回復したのは、その5年後の「日本国との平和条約」(昭和27年4月28日発効)の締結成立にして、漸く沖縄問題を除き、こぎつけたのであり、今日のようにすべてにわたり論理的、学術的に法治国家の体制とはいえない点もあったことは、否めない事実である。

 

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