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日本計量新報 2017年3月26日 (3143号)

ケプラーの多能標準器とドイツのワイングラス

太古の人々は、太陽は東から昇り西に沈むから太陽が地球を回っていると信じていた。コペルニクスは地球が太陽を回っている地動説を唱えた。ケプラーが楕円運動による天体論を元にした『宇宙の神秘』を1596年に出版して地動説を確かなものにした。ガリレオ・ガリレイはその理論を支持した。アイザック・ニュートンによって数学による宇宙論を古典物理学として完成させた。ケプラーことヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler1571年から1630年)は『宇宙の神秘』『新天文学』(Astronomia Nova)」によって天体運行の法則を明かにした。『新天文学』でケプラーの第1と第2法則が示され、1618年に第3法則が発表された。

ケプラーは居酒屋の長男として1571年にドイツのシュヴァーベン地方にあるヴァイル・デア・シュタットで生まれた。奨学金によって神学校で学んだのちに1587年にテュービンゲン大学進み数学を学んで1594年にはグラーツの学校(現在のグラーツ大学)で数学と天文学を教える。1596年に『宇宙の神秘』を出版する。1612年にパトロンであったルドルフ2世が死亡するとプラハを離れ、リンツで州数学官となる。故郷ヴュルテンベルグでは母親が魔女裁判にかけられたので弁護を余儀なくされ1621年に無罪を勝ち取りリンツにもどる。リンツでは1626年には農民暴動が発生したためにウルムへと移る。ウルムではこの機会に数十年来の天文研究をルドルフ表としてまとめて翌1627年に発表する。1630年にレーゲンスブルクで病死するというケプラーの生涯である。

そのケプラーが度量衡の標準器をつくっていたのである。ケプラーが最晩年に滞在したウルムの町では300年後にアインシュタインが生まれる。ウルムとリンツはチェコとオーストリアの間を東へ流れるドナウ川の流域にある。ウルムはスイスに近い。ケプラーはドナウ川の流域の町を上ったり下ったりして生涯を過ごした。新教徒だったケプラーは新教ウルムの町に移ることによって落ち着いた生活をする。ケプラーは居酒屋の長男として生まれている。それが関係したかどうか1615年にリンツにいたころに『酒樽の新立体幾何学』という酒樽の容積の計算の仕方の本を書いている。

葡萄酒の売買における商人の容積計算方法の出鱈目さに憤慨したことが動機であった。さまざまな系統の度量衡が混在していて商取引に不便があったためにウルム市庁は度量衡の整理と統一を図ろうとしてケプラーに調査を依頼する。ケプラーはこの仕事に精力的に打ち込む。調査に基づいてケプラーが示した度量衡の運営方法はごくわずかな変更によって対応することであった。度量衡単位の地域性と複雑さの解決は法令で処理しても建前だけのものになりかねないということだったのだろう。

複雑な天体の動きを美しい数式に整理したケプラーはウルム市庁における度量衡調査と連動して、長さ、質量、容積の単位を一つの容器によって現す「ケプラーの多能標準器」を1627年につくった。多機能標準器は二系統の長さ標準器を備えている。この時代では長さを一系統に無理矢理にまとめることは現実的ではなかったのだろう。

ケプラーが生まれたドイツという国はビール、ワイン、ジュースなどの容積にうるさい。グラス単位で販売する酒場のグラスには容積を示す目盛り線が入っていて、お酒などを売る人はその目盛り線まで注ぐ義務をドイツの計量法が求めている。

ドイツのこの法律を美しき慣わしと感動した計量団体の長が同じことを日本で実施すべく計量法の大改正に際して重要人物に働きかけるなど派手な動きをした。日本の計量法には馴染まないという結論がだされた。ドイツにおけるこの法律の守り神である老法学博士の働く様子をつぶさにみていた日本人の研究者がいた。その人はミュンヘンなどでドイツ人のビールの飲み方もみていた。酔っぱらえばドイツ人は机に上って肩を組んでさわぐ。そのような人々のグラスの容量の目盛り線の意味を考えたのだろう。研究者は結論をだした。ワインはビンに詰められているときにキチンとした容量があればそれで事足りる。

昇る朝日に太陽が動くと思い込んだ人がいる。数学によって天体の運行を計算して地球が太陽を周回していることを確かめた人がいる。同じ物をみていても人は別のことを考えている。

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