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日本計量新報 2013年9月22日 (2980号)

強い放射線の上で生活している、何故こうなったのか

強い放射能物質が福島市に降りそそいだ。福島第一原子力発電所の原子炉から漏れた高濃度の放射能物質は北西の風にのって30km以上も離れた飯舘村を汚染した。山を越えた先にある中通り地域の福島市なども心中穏やかでないほどの高濃度放射線に晒されている。放射線には小さな子供ほど大きな影響を受ける。庭などの放射線量は部分によっては驚愕するほどの値を示す。どうしてこんなことになったんだ。その思いは放射能汚染で避難を強いられている人々にはいっそうのことである。
 原子炉圧力容器と原子炉格納容器の下部の円筒形の圧力制御室の計装設備は地震とそれにつづく大津波で大きな被害を受けた。1号炉と2号炉の間にある中央制御室は電源が破損したために計器盤の表示はすべて消えた。当直の運転員は事態に現実的な対応をするため、原子炉格納容器の高まった圧力を抜くバント作業を手動でするための作業と並行して壊れた炉心冷却用の配管を別のルートで再構築する作業を、事故直後におこなっていた。福島第一発電所所長の吉田昌郎氏は、その場でできることの最大の手立てを全力でした。運転員たちは海面から14mの位置に設営されている原子炉建屋が津波で被害を受けることが意外であった。それにしても14mを超える津波への真っ当な対応力を備えていなかった福島第一原子力発電所の現実に驚愕した。吉田昌郎氏は福島第一原子力発電所にある6基の原子炉とその隣にある第二発電所の4基の原子炉が壊れて暴走するとチェルノブイリの10倍の被害になると、その結果を恐れた。そしてこれを食い止めるために自分はここで死ぬという覚悟を決める。当直の運転員たちも同じであった。原発事故の技術的内容を理解しなければ気がすまない菅直人首相を東電本社の技術員、原子力安全委員会の委員は満足させることができない。それが吉田昌郎氏の数分の説明で了解する。このときに菅首相はやっと事故の重大さを受け入れた。それでも菅首相は何故だ、何故だ、何故こうなったのだ、それも自分が首相でいるこの時期にという思いがあったろうことが窺い知れる。
 東日本の南側の海辺を襲った大津波の被害は大きい。日本の2000年を考古学的に考察すると1000年に1度は巨大地震と大津波が発生している。1707年に発生した宝永地震で高知県の標高18mに位置する村が大津波で壊滅した。1946年におきた昭和南海地震にともなう大津波で高知市内は水浸しになった。人はわずか70年ほど前の記憶さえも消し去る。目の前のこと、今日のこと、明日のことといった短い時間のことしか考えない。日本だけでなく世界がそのように動いているからなのだ。しかし東日本大震災で家と家族と仕事を失った人々が思うことは、もうこのようなことがあってはならないということだ。驚愕の事態の教えはあったのだ。歴史の文書、考古学が示す事実などがそれだ。目の前にある穏やかな海をみているために、海岸線に産業施設が広がり、人が住宅をつくって暮らしてきたのであった。
 でき上がってしまったものを元に戻すことは難しい。東日本の海辺の街にしてもそうだ。稼働させてしまった原子炉も同じである。だから原子力村を形成した人々はどのようなことがあっても原子力発電は安全であると決めて、外部の意見のほとんどを排除してきた。大きな地震と大津波の発生の指摘を少しでも聞く耳をもっていたならば、福島第一原子力発電所の全電源喪失は起こらなかった。予備電源の発電設備を高台に移しておけばよかった。地震と津波によって壊れた街は、人口などの規模を縮小する形で復興に取り組む。原発事故で放射能汚染され、放射能被害におびえる人々は原発の再運転は裏切りと思う。電力需要に占める一般家庭の割合は一割強であり、水力発電と火力発電で電力の総需要への対応能力を保有している。心配ならばこれらの発電設備を増設すればよい。濃縮ウランを燃やせば必ず放射能がでる。それを運転する技術はどこまでいっても未熟であり不完全である。技術には失敗がつきものである。放射線を出す原子炉は放射線を出さないという観点からは本質的に大丈夫ではない。
(福島第一原発の事故と原発の現状を考える 連載その5)

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