計量新報記事計量計測データバンク会社概要出版図書案内
2011年5月  1日(2868号)  15日(2869号)  22日(2870号)  29日(2871号)
社説TOP

日本計量新報 2011年5月1日 (2868号)

南三陸町佐藤仁町長の奮迅ぶりに指導者の模範をみる

社会や集団で、指導的・支配的役割を受け持つ、優秀な能力を持った人や集団をエリートと呼ぶ。政治家、上級行政職員などは社会の総体としてみればエリートに属する。日本における最高のエリートは総理大臣であり、その最も大きな役割は、国民の平和と安全を確保することである。
 歴代の日本の総理大臣は、国民の安全と平和のことをどれだけ考えてきたであろうか。菅直人現総理大臣はどうであるか。首相になってからは語る言葉に力がないし、その言動には疑問を感じる。東日本大地震への初動を含めた対応に評価すべき点がないだけでなく、国として成すべきことをほとんど知らないようである。
 行政機関当局は東日本大地震の被災の全容が未だにつかめないと発表し、テレビやラジオ、新聞などのマスコミはこれに追随するが、馬鹿げたことである。日本の上空から撮影した衛星写真は東北関東大地震の被災地の状況を克明に写している。情報収集の技術は著しく進歩している。政府機関の総力を挙げて調査すれば「未だ全容は不明」などという事態にはならないはずである。
 問題が起きればできうる限りの情報収集をし状況の把握をして、わかったことに対して必要な手立てを打つのが当然である。日本の政府にはこれができていない。菅総理は日頃から東京工業大学の出身者であることを自慢げに述べ、技術に詳しいことを吹聴していたが、原子力発電の原理は知っていても日本の原子力発電の基本欠陥のことは知らないと思われる。自分が指揮をとれば速やかに東京電力福島第一原子力発電所の事故は収束できると考えたようであるが、いまだ事態は深刻である。この事故は世界への恥であり、政府は事故対応の甘さから政治的な意味でも無力であることが露呈した。

 エリートの在り方を説くひとつの事例として、英国軍の将校の意識と行動様式がある。英国軍の少尉、中尉、大尉などの将校は兵とともに前線にいて戦闘する。突撃といえば将校が先頭に立つ。兵と同じ場所にいてその先頭に立つのだから兵が後ずさりすることなどできない。こうした行動様式の結果として、英国軍の将校の損耗率は他国の軍に比べて飛び抜けて高い。英国は階級社会が残っているといわれるように社会の階層があり、高等教育を受ける人々や士官学校に入る人々には上流階級の割合が多い。いわば特権階級の人々であるが、そうした人々には社会に献身するという掟がついてまわる。国のために身を捨てる覚悟ができているからこそエリート階級の将校たちは前線で先頭に立って部隊を指揮することができるのである。
 翻って日本は、過去の在り方からしても、軍隊は下士官以下の兵を恐怖によって締め付けて戦闘をするようになっていた。軍司令官や師団長などの高級士官は後方にいて、古い情報を元にした役に立たなくなった戦法で指揮を執る。戦前の軍隊は軍隊それ自体を守ることを目的にした共同体組織であり、東条英機はその調整役であったと、元国務大臣で作家の堺屋太一氏は述べている。そして、日本の官僚機構がそれと同じことになっているので改革が課題であると説いている。東日本大震災の発生に対応する菅内閣と政府機関の行動の鈍さは、堺屋氏の説を裏付けているようにみえる。

 その一方で、国家の難局に際して見事な行動をみせたのが宮城県南三陸町の佐藤仁町長である。
 佐藤町長は屋上まで津波が押し寄せた庁舎3階のアンテナ塔にしがみついて運良く生き残った。町の中心部が壊滅する大災害に、気丈にも不眠不休で陣頭指揮する姿はとても真似できないと思われるほどで、その神々しい様は現代日本人の模範であるといってよい。
 また被災地では復興のため多くの人々が奮闘している。被災しながらもパニックを起こさず冷静に自分の役割を果たす人々の姿に、賞賛の声を上げる外国メディアは多い。被災地域の主産業は漁業であるが、同時に日本の産業がさまざまに立地している。国内外の自動車、電機その他の産業もこの地の生産物なしに動かないことは、自動車産業が震災発生から1カ月も生産を止めたことで明らかである。被災地の復興状況に、これからの日本や世界の経済は左右されると言っても過言ではない。
 被災地の持ち場において、復興への大きな役割を担い、責任ある行動をとっている人全てがエリートと呼ばれる立場にある訳ではない。しかしながら被災地域への強い責任感、優れた精神は、日本が世界に誇ることができる財産である。
 町長を始めとした人々の奮闘と比較すると、国の宰相である菅直人内閣総理大臣の指揮と行動の体たらくは、誰の目にも明らかである。他の閣僚たちの働きぶりも、この国難にあっては不十分である。これらのことからすると、エリートにふさわしい精神は社会的な立場によって培われるものではないようだ。
 中身を伴わない肩書きだけのエリートなどいらない。本当に必要とされるのは、自分の身を犠牲にしてでも職務と責任を全うする精神をもつ者である。 

※日本計量新報の購読、見本誌の請求はこちら


記事目次本文一覧
HOME
Copyright (C)2006 株式会社日本計量新報社. All rights reserved.