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日本計量新報 2007年5月13日 (2674号)

知識経済社会と情報発信意欲とインターネット利用能力

新しい技術を理解することには理解が要ることが多い。司馬遼太郎氏が戦車隊の乗組員であったときに戦車のエンジン始動をはじめとする電装系のことを人に説明しても理解を得られなかった。自動車にはエンジンと電装系があって、スターターを入れると蓄電池の電源から電気モーターに電気が送られてこれが回転することによってエンジンをキックする役目を果たすためにエンジンが始動し、同時にまた発電機が機能するのでライトやその他の電装系が働く。こうしたことは自動車に慣れると「ああ、そうか」と感覚で理解できることである。しかし、初めて自動車としての戦車にさわる人には何が何だかわからないとキツネに化かされたような面持ちになる。
 同じようなことが新技術としてのインターネットの世界のことやパソコンの取り扱いの分野で起こる。数学や自然科学の知識が豊かな人ならパソコンの取り扱いやインターネットの利用は、この方面のことを少し学べばお茶の子さいさいかと思うとそうではない。技術的にまだまだ不十分な商品であるパソコンを買ってきてもテレビを直ぐ使うのと同じようにはできていない。初期設定は難題であり、電子メールを使えるように設定し、インターネットへ接続することなども頭が痛くなる事項で、こうしたことが障害になってせっかく買ってきたパソコンで電子メールを利用することもインターネットへアクセスすることもしないで宝の持ち腐れにしている人は少なくない。人にとってはよくわかっていることでも知識が不十分な人にとっては未知の分野である。パソコンもインターネットもこの方面の技術面を含めた固有の用語を使って話しをすると、知識のない人にとってはチンプンカンプンであり、会話がほとんど成立しない。
 生活分野の会話あるいはコミュニケーションをする際には相互に共通の理解のある用語を用いるのが原則である。子供との会話に難しい用語を使ってはコミュニケーションは成立しない。技術分野などの専門家が普通の人に関連分野のことを説明するのに専門用語をそのまま使っては意味を伝えることはできない。テレビに登場することでは経済の専門用語などをカタカナ文字でも使う場合にはこれを正確に理解できている人は少ない。賢い人は相手がわからない用語を使わない、またどのような日常会話でも専門用語は持ち出さないし、難しい概念の用語も使わない。愚者はそうすることが自分を賢者に見せると勘違いして、相手が語った言葉を理解しているとそのことは知っているというような面持ちをし、直ぐにその用語を会話に組み込んだりする。
 ある会合で高田ユリさんが「思いの丈」という言葉を使ったら、次に登場した公務員がその言葉を多用して長い演説をしたことがあった。この人物は自分は知識と知能で他人に負けることなど許せないということで生きてきたのであろう。この人物は同じ職場の配下の結婚式のお祝いの言葉を1時間も述べていたということであるから、他人のことを配慮する神経など持ち合わせない愚者であることは明白であり、その後世の有名人にならなかった。
 企業と顧客とのコミュニケーションとして電子メールは決定的に重要な手段になっている。手紙や電話などのコミュニケーションの代用として、あるいは機能的にそれを超えるものとして電子メールが用いられている。企業やその内部のどの分野のどの範囲まで外から入ってきた電子メールを見ることができるようにしておくかは、企業やその部課それぞれの考えで決められる。ある課では届いた電子メールを全員が見ることを原則とすると、所属の人員はそれぞれにパソコンをそのように設定して対応する。課に届く電子メールを受けられるようにパソコンを設定する知識がない者は誰かに頼んでそのようにする。その課長はパソコンの操作はできるものの電子メールを見たがらないので、ある者が課長宛に届いた電子メールだけは直接に課長の単独の電子メールアドレスに送り届ける業務をしていた。十分ではないけれど課長はそれで用を足していたのであるが、課宛に届く電子メールへの理解ができていないものだから、課長宛に電子メールを転送する者が恣意的に電子メールを操作しているとして、その業務を行ってきた者を皆の前で罵倒した。課の全員は驚き、また課長宛に親切に電子メール転送の業務を続けてきた者は悲しみそして怒りに震えたことであった。しかしながら課長に対しては「すみません」とだけ答えた。理不尽なことである。この理不尽はどこから生じたかというと、課長がパソコンとインターネットを利用する能力が十分でないにもかかわらず自分は語っていると思いこんでいること、そして業務を共にする仲間への思いやりが不足していること、また相手に事実を確かめることなく怒って人前で罵倒するという人品の卑しさがあることである。
 情報社会はパソコンとインターネットの能力の発展・向上とともにその内容を濃くしており、経済はアルビン・トフラー氏に語らせると「知識経済」に移行している。知識とは一般的には知ること、認識・理解すること、ある事柄などについて知っている内容のことであるものの、考える働き、知恵でもある。広い知識は考える働きを助け知恵を生む。企業活動その他において情報社会と知識経済のもとにおいては情報の収集と発信は重要事項である。電子メールを取り扱う能力は当たり前になっている。電子メールの技法と同レベルで情報発信する方法として「ブログ」などと呼ばれる簡便性に富むウエブサイト運営が普及している。本格的なウエブサイト運営には難しさがあるもののその気になって学び訓練を積むかトレーニングを受ければ何とかなる。企業もさまざまな法人もそして個人も情報社会にあっては主体的に情報発信する意欲と能力を持ち合わせることが望まれている。パソコンを取り扱う延長に電子メールがあり、電子メールの延長に「ブログ」があり、さらにホームページとしてのウエブサイト運営がある。現代のビジネス世界などに生きる人に望まれる基礎的能力の一つとしてパソコンを取り扱う能力、インターネットを利用する能力が必要事項になっていて、その延長に情報能力がある。そして情報能力は知識能力につながり、考える働きを助け、知恵の元にもなる。「読み書き算盤」という寺子屋が担った教育のうち、算盤(そろばん)の能力をパソコンとインターネット関係の能力に置き換えて現代人は寺子屋で学び直さなくてならない。


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