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私の履歴書 守浩三(前千葉県計量協会会長、前京葉計器会長)                 

終戦の思いで(平成8年7月23日記)

 この項を執筆した平成8年は例年になく早く梅雨が明けて、毎日猛暑が続いていた。この時期になると毎年思い出す事は敗戦の日、引き揚げの日々である。昭和20年8月15日、この日も暑く、空は抜ける様な青空であった。

 当時、私は京城帝国大学理工学部の学生で、夏休みの実習と卒業論文の実験のため、平安南道の仁平にある、日本鉱業(株)成興鉱山(4千人規模)に滞在していた。ここは前年の夏休みに、立岩教授(朝鮮総督府地質調査所長)と、堀部助教授に連れられて「探鉱学」の実益を兼ねた実習の際に、見学に立ち寄った鉱山であった。

 私の専攻学科は鉱山機械であるが、担当の水田教授(東京大学に復帰、定年後は、名誉教授・通産省石炭技術研究所理事長)より「鑿岩機のビット(刃先)の形状と岩石との関係について」との卒業論文のテーマをいただいた。先生からは一生の研究テーマとして勉強する様に励まされ、これに取り組む決心をした。

 これと同様の研究は、京都大学の小坂教授が学位論文として発表されていたが、実験には極端に細いロッドのビットを使用しているので、もっと実用に近い装置で研究して新しい理論づけをする様にアドバイスがあった。水田教授はワイヤーロープの研究で学位を取得され、この分野では日本の第一人者である。満州国、満鉄憮順炭砿の竪坑のスキップに使用したワイヤーロープの設計は、水田先生研究の成果とお聞きしている。話が逸れたので少し戻す事にする。

 昭和19年の8月、成興鉱山でサイパン島陥落、東条内閣総辞職、小磯朝鮮総督が内閣総理大臣に任命のラジオニュースを聞いた。これで日本は負けたと口には出さなかったが頭をかすめた記憶がある。アメリカのB\29による日本本土の爆撃はこれから激しくなったが、朝鮮半島には一回もなく、満州の炭砿、製鉄所等は爆撃の被害をうけている。朝鮮人は白い民族服を着ていれば安全と言っており、終戦時期も彼等が日本人より早く知っていた。

 私にも朝鮮人の学友がいたがそんな様子は全く見せなかった。終戦の二週間後、京城で彼に会った時「どんなに貧しくとも自分の国だ。これから頑張る」と目を輝かせて話していた。今にして思えば、朝鮮民族の我が国に対する恨みは私の感じた以上に凄く大きかったのであろう。

 ラジオから終戦の詔勅が流れて間も無く、朝鮮人の家々には太極旗が掲げられ日本人に対する略奪、暴行が始まった。私は石川所長に京城への脱出を懇願して、京城支社への連絡を目的としてやっと許可された。

 8月19日の朝、社宅の奥さん方の心尽くしの弁当と預かった書類、手紙、食料と着替えの入ったリュックサック、トランクを背にしてトラックに乗り、日本人400人の期待を込めた見送りの中を京城に向かって出発した。36kmの山道を抜けて国鉄平元線仁平駅に着いたのは昼頃であった。

 元山(日本海側)を回るか平壌(現在は北朝鮮の首都)を回るか、右するか左するか決断の時であった。ラジオでソ連の対日宣戦布告、19師団司令部のある羅南、清津への艦砲射撃、爆撃を知っていた私は平壌を通る方が安全と判断して、入構してきた平壌行きの列車に乗り込んだ。その列車は軍用列車で日本の兵隊ばかり、有蓋貨車の一隅に座った私に若い陸軍中尉が「君は日本人か」と問いかけてきた。私は「そうです」と応えた。

 京城に辿り着いたのは8月23日であった。早速、日本鉱業京城支社に赴き山元の事情を報告して、私の任務は終了した。自宅に帰って両親と弟、妹にこれまでの経過をつぶさに話をして互いの無事を喜んだ。

 その後、鉱山から脱出してきた人の報告では「9月中旬ごろ赤衛隊が乗り込んできて、小学校校庭で日本人男子を民衆裁判にかけて、家族の見ている前で26名を虐殺した」との事であった。10月31日早朝、薄氷りの張った自宅を後に、家族と共に内地に向けて出発した。釜山の倉庫で数日間船を待ち、乗船して間も無く船は動き出した。やがて船の右左に撃沈された船のマストが海面より突き出ている異様な風景が暫く続いた。海中に付設された機雷を避けながら昼間の航海を続け、山口県仙崎港に到着したのは11月10日、くしくも私の誕生日であった。

 私の上の兄は内地勤務で無事に復員したが、下の兄は北鮮で終戦、ソ連に抑留され帰らぬ人となった。あれからもう50年以上を経過したが、戦争に敗れた人々の悲惨さを体験して、国の大切さを今の若い人に語り、日本人の誇りをもっと自覚して戴きたいと願うこの頃である。

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