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私の履歴書 守浩三(前千葉県計量協会会長、前京葉計器会長)                 

私を取り巻く家族、親族、縁者

先輩たちが戦線に送られる時代

 私が中学3年生だった年(1938年)の6月に、「マジノラインで対峙するドイツ西部戦線」と題する作文が出題された。この頃の日本は既に中国と全面戦争に突入しており、周囲の先輩達もぞくぞくと前線に送られ、自分も将来は同じ道を行くと覚悟していた時代である。

 したがって国際情勢はもちろんのこと、各国の軍備、戦況、政治等の動静には敏感にならざるを得ず、松岡外務大臣による国際連盟脱退、日独伊防共協定締結の経緯など十分に把握していた。例えば各国の戦艦、巡洋艦、駆逐艦、航空母艦、の排水屯数、速力、大砲の口径、数、航空機の積載数、戦闘機および爆撃機の性能、陸軍の装備および配置などなど空んじていた。

長兄は陸軍航空技術研究所に

 長兄は東京航空計器に就職3カ月で招集され太刀洗陸軍航空隊に入隊した。そこで短期現役技術将校試験に合格、宇都宮の予備士官学校を卒業して4カ月後に陸軍航空技術中尉に任官、立川の陸軍航空技術研究所に配属され、対空航法の研究に終戦まで従事した。

 当時の陸軍航空隊は対地航法で中国大陸の各軍事拠点を爆撃していたが、九州地区からの出撃では中国大陸との間には東支那海があり、昼間の渡洋爆撃しかできなかった。

 海軍航空隊では空母主体の機動部隊であるため当然対天体航法で戦闘は行われた。この成果は開戦間もない12月10日、南西方面航空隊はマレー半島沖に於て英国東洋艦隊を発見し、その主力戦艦プリンスオブウエールズならびに戦艦レパルスの2隻を撃沈した。翌年2月にはインド洋において英国空母ハーミスを撃沈した。陸軍では昭和16年から天体航法の研究が始まった。

多趣味な大学教授の長兄

 陸軍海軍の連係は技術においても、兵器においても双方の協力は全くなかった。日本国敗戦の一大要因である。米国では陸海軍の垣根を取るために海兵隊を組織したとも言われる。

 長兄は終戦後復員して九州帝大に戻り、数年して宮崎大学工学部助教授として赴任したが、専門は弾性力学である。長兄は多趣味で囲碁は県本因坊戦で決勝まで進んだり、先に述べたチェロ奏者としては宮崎交響楽団に属して、定年になって名誉教授就任後は同楽団の団長を務めていた。

妹玲子は教員生活後主婦に

 妹の玲子は昭和5年5月1日生まれである。京城師範付属小学校から京城第一高等女学校へ進み3学年の8月に終戦を迎えた。

 北九州市小倉に引き揚げ小倉高等女学校から国立九州工業大学電気工学科を卒業して、しばらく中学校の先生をしていたが、結婚して今は一家の主婦である。

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