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私の履歴書 蓑輪善蔵(日本計量史学会会長)                 

通産省計量教習所所長時代

 

 

 

大原和三郎さんにご馳走に

 これらの他計量教習所に移っていろいろの思い出がありますが、玉野さん、堀さんと一緒に当時日本計量協会副会長だった大原和三郎さんに何回かご馳走になったり、計量教習所の同窓会を作る計画をしたり、環境計量の講師を依頼するため、立地公害局、東京工業試験所、資源技術試験所などに講師の依頼をお願いに行きました。

 環境庁企画室に行ったとき、通産省から出向していた事務官に、いわれのない嫌味をとうとうとしゃべられ、団体主管の計量教習所と思われ、謝金の額などから計量教習所は潰れるぞ、などと言われたこともありました。その他国立衛生研究所、大学、日立製作所、島津製作所、オルガノ、リオン等々から講師をお願いしていました。

日本計量士会での仕事

計量士会専務理事に

 1979年(昭和54年)12月17日漸く退職することになりました。この日は午前本省で辞令を貰い、計量課に顔を出し、教習所に取って返して、研修所と教習所合同の送別会に出席しました。翌18日から<CODE NUM=01F6>日本計量士会に勤め始めました。計量士会では歓迎会を、東京近郊の環境計量教習修了者の方々には退任の宴を開いて頂きました。また何故か、前計量課長だった秋山収さん、小泉袈裟勝さん、本宮大介さん、佐藤次郎さんと歓迎会ともつかぬ宴がありました。この頃の計量会館には、<CODE NUM=01F6>日本計量協会に堀忠良さん、佐藤次郎さん、<CODE NUM=01F6>計量管理協会に松代正三さん、昇和美さん、<CODE NUM=01F6>日本計量機器工業連合会に村田瑛一郎さん、小泉袈裟勝さん、日本試験機工業会に管野勝さん、東日本ガラス製温度計工業組合に石本義二郎さんなどの方々が居られました。しばらく後のことですが外野から聞こえてくる噂には、計量協会、計量管理協会、計量士会の専務理事、計工連の常務理事が計量研OBとなり、計量会館は計量研に乗っ取られたなどというものもありました。

健全経営の筈が

 私が日計士会に移る前本宮さんは、計量士会は「経理上は問題なく、健全経営である。長野計器との関係は清算し、職員の出向も無くしたし、大きな問題は特にない」とのことでした。しかし職員は、本宮専務理事、経理担当の内藤文子さん、会員管理と材料試験機の成績書を担当する高橋博司さん、力計の検査を担当する村岡俊昭さん、材料試験機の検査と、地方で行っている材料試験機観測紙のチェックを担当している石丸努さん、それに非常勤で温度計、汚染水銀の検査を担当している大先輩の高橋凱さんでした。村岡さんはこの年の9月に計量教習所を修了して勤め始めた人で、この程度のスタッフで事務がよく処理できたものと思いました。

当時の計量士会のようす

 私の出勤は12月も半ば過ぎからのことで、この年は挨拶と整理で暮れてしまいました。1980年になり間もなく、計量士会の副会長高萩浅吉氏が亡くなり、贈位の手続きがありましたが、本宮さんはもう帰心矢の如くなのでしょうか、やる気がなくなっているように見えました。専務理事の仕事も止むを得ないものだけで、後は私の肩にかかってしまいました。私は高萩さんの贈位の手続き、会員のための情報紙の原稿作り、計量教習所時代から続く各種委員会関係の仕事もあり、忙しい日々が帰ってきました。昭和55年度の事業に初めて「計量士の実態調査」という(財)機械振興協会経済研究所からの委託事業が決定したのも2月のことでした。2月には計量百年史の完成祝賀会、溝呂木金太郎氏の祝賀会、そして計量士会の事業運営委員会、検査事業委員会と理事会がありました。全国から集まった理事は、私より20歳も年上の人をはじめとする都道府県計量検定所OBが大多数を占めていました。会長は溝呂木金太郎さんで、この時にはもう不自由な身体になっていました。 副会長は東京都出身の原善造さんと広島県出身の藤田武夫さん。大阪府出身の高萩浅吉さんは1月に亡くなり1人欠員でした。理事会の運営は、2人の副会長と本宮専務理事、それに豊橋の鈴木敏夫さんで仕切っていたようでした。議長は藤田さんが努め、来年度の事業計画の前文は鈴木さんが作っていました。理事会が終ると今度は総会のための準備に入りました。そのために先ず、今年度経理の決算をしなければなりません。1人で受け持っていた内藤さんは、毎日残業しては伝票を書き、本宮さんの判を貰っていました。

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