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私の履歴書 蓑輪善蔵(日本計量史学会会長)                 

計量研究所第4部長時代のこと

 

 

 

同好の士で計量囲碁会

 4部長になる少し前からだったでしょうか、日本計量新報社の久保田誠社長と碁を楽しむようになっていて、土曜日の午後市ヶ谷の日本計量新報社によく立ち寄っていました。このときの相談で計量囲碁会を発足させ、日本計量協会の南部鎮雄会長から優勝カップの寄贈をお願いし、計量研、東京都計量検定所、神奈川県計量検定所そして各団体の事務局に声をかけて開催したのを思い出します。会場と世話人は計量会館、計量研、東京都などで持ち回り、多いときには30〜40人もの囲碁愛好者が集まりました。一時中断しましたが、最近また復活して、1年に1、2回計量会館で開催されていますが、15〜20人程が参加しています。

計量研4部の主な業務

 第4部の業務は総務部業務課と行う計量法施行に係るものと、3支所との関係が主なものでした。計量法施行関係では本省の計量課と月1回の中央連絡会議、年2回の全国計量行政機関会議、年1回の全国計量技術連絡協議会、本、支所技術課長会議などの会議と、計量教習所並びに都道府県との関係があります。この時、大阪支所長は原田祐之さんでしたが、この年7月高井登さんになり、福岡支所長は吉永明さん、名古屋支所長は小島鹿蔵さんで、業務課長は高橋政雄さんでした。

 計量器の検査、検定技術を統一し、効率化する目的のため、全国計量技術連絡協議会は計量研と都道府県計量検定所とによって作られていましたが、その下に各地区の計量技術連絡協議会があり、その管轄と分担は本所が、関東甲信越地区と東北北海道地区、大阪支所が近畿地区(除三重県)と中国四国地区(除山口県)、福岡支所が九州地区(含山口県)、名古屋支所が中部地区(含三重県)となっていました。各地区の計量技術連絡協議会は質疑応答の他に、担当計量器を決め、その性能に係る調査研究を実施していました。

中検に地方庁の人事権が

 1933年中検の所長が橘川司亮氏から渡辺襄氏になったとき技術と行政が分離し本省に監督課が生まれました。それまでの中検は地方庁の人事まで持った計量行政すべての監督、指導官庁でその実権は1940年前後まで続いていたようですが、その後は研究、技術面と新しい計量器への対応が主になり、計量法が誕生して20年も経過すれば、計量研そのものの性格も変わり、計量行政への直接的技術対応も第4部に任される状況になり、小泉さん時代から独立守備隊などと称していました。 

筑波移転の後始末

 4部内は筑波移転での議論はつづいていましたが、周囲の情勢も変わらず、私が東京に分室を作ることに消極的であり、計量標準に対する主義の違いと、実現の困難さを含めた説得もあったのでしょう、しばらくすると、なんとなく沈静化してきたようにも思いました。

 4部には約20人の研究職と略同数の行政職とが配置されていて、研究職は計量器についての研究と形式承認関係を、行政職は基準器検査と検定を受け持っていました。そして筑波移転に関しては、移転困難者や筑波に行きたくない人達への対応が重要な課題でした。

 大分以前には、計量器使用事業場に計量研OBも計量士として多くの人が勤務していました。例えば、明戸一郎さん、榎本貞一郎さん、黒田貫忠さん、加藤容三さん、内田牧さん、庄司行義さん等々ですが、この頃は伊勢丹の吉田彰二さんくらいでした。そこで、計量士の資格を持つ移転困難者に対応するために、早速と東京都計量検定所へ出向きました。この時の検定所長は確か堀井晃さんで計量研から東京都に移っていた堀越義国さん、川村竹一さん、東ヶ崎圭二さん、矢島克巳さん、白井岩一さんなどが居られ協力をお願いしました。この後、矢島さんと白井さんには大変お世話になりました。私が部長のとき木下鉄男さん、森光男さんが転出されましたが、以後多くの人が計量士として働くようになりました。

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