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私の履歴書 蓑輪善蔵(日本計量史学会会長)                 

度量衡法改正から環境計測の取り込みまで

 

 

 

浮ひょう係長へ

 圧力計などの検定規則が一段落した翌年の4月浮ひょう係長へ配置換えになりました。実は1年前の4月に浮ひょう係長への内示があったのですが、係員の反対意見が多く1年延びていたものです。計圧器係の次の係長には榎本進一さんがなりました。

 浮ひょう係への配置換えは検定のほか浮ひょうの標準即ち密度の標準設定も大きな目的であった為のようでした。この数年前から比較検査係で間宮修一郎さんが密度標準の仕事にかかわっていましたが、計量課に転出してしまった為のこともあったようです。

 今考えますと、この時から私の後始末人生が始まったことになりました。浮ひょう係には大越正夫さん、保科直美さん、沢吹忠雄さん、山本伸一郎さんなどがいましたが、私と保科さんが標準の仕事を、検定は大越さんに指揮をして貰うことにし仕事を進めました。計量法の方は同じ浮ひょうでも、目盛の単位により密度浮ひょう、濃度浮ひょうと比重浮ひょうに分けられて検定規則が出来ていました。この規則は中谷昇弘さんと保科さんとで作られたようです。

 私が行ってから今度は、基準器検査規則の制定に向けての作業が始まりました。責任者は私でも保科さんと大越さんの知識でつくりました。この時保科さんの主張だったと思いますが、はじめて液体の表面張力に関する規定が盛り込まれました。

基準浮ひょうを校正

 浮ひょうの標準はこれまでNo.127(24本組)の密度浮ひょうを基準としていました。この浮ひょうは大正12 年の関東大震災で本所の標準浮ひょうが焼失した為、急遽福岡支所から移管させたもので、その校正は昭和16年に行われたままでした。この浮ひょうと大阪、福岡、名古屋支所の基準浮ひょうの校正が私に課せられた仕事でした。

 浮ひょうの標準は基準密度浮ひょうの器差測定に尽きますが、これは基準密度浮ひょうの示度と、その液体の密度を測定することに尽きますが、示度の読み取りと、ピクノメーターによる密度測定の今で言う不確かさの検討や実験を行った後、器差測定をはじめました。測定を始めて間もなく、薄い硫酸水溶液で表面張力が大きい液体の時に、浮ひょうの示度が安定せず、器差の決定が出来ず、測定を中止してしまいましたが、所長の玉野さんから保科さんへの文献紹介から液体表面を流して新しくすることにより、浮ひょうの示度を安定させることが出来、測定を再開することが出来ました。この示度の不安定は結局表面張力の不安定によるものでした。また玉野さんから当時のN・B・Sから刊行されていた「浮秤の試験」という小冊子の翻訳を命ぜられ、四苦八苦しながら玉野さんに直され漸くガリ版刷りの冊子にすることが出来ました。私にこれから英語に馴染むようにとの親心だったのでしょうが、不肖の弟子になってしまいました。

治外法権的な部屋

 私は1年間の計量教習を終えた後比較検査係を振り出しに仕事につき、調査係、計圧器係から浮ひょう係に移りましたが、計圧器係では中検の方針なのか、谷川さんの個性からか、仕事についての命令や、指示の類が全くと言っていいほど有りませんでしたし、続いた石井節三さん、鈴木豊明さんの係長の時そして私の時も、又浮ひょう係に移ってからも殆ど上司からの指示は有りませんでした。私が計圧器係長になった頃から第1部第2課計圧器係、そして浮ひょう係となり、課長は中谷さんでしたが、課長からは部長会議の報告だけだったように思います。多分私などが係長になる前は、経験豊かなベテランが係長だったことにも原因していたのでしょう。今になって思いますと、計圧器係は谷川さんの感化院と呼ばれていて谷川さんの独裁部屋、部屋中常に油だらけ、また浮ひょうの係は硫酸、硝酸を使い作業衣はボロボロ、いつ飛沫が飛んでくるか分らない部屋、上司が入ってくることも滅多になく、正に治外法権的な部屋でした。案外、圧力、密度は基本単位ではないし中検の表看板でもなかったことが原因かもしれません、その為か私など最後まで勝手気ままに過ごさせて頂いたような気がします。

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