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私の履歴書 蓑輪善蔵(日本計量史学会会長)                 

戦後自由思想と中検の組合活動

 

 

 

麻雀と卓球に興ずる

 騒然としていた時代で収入もインフレに追いつかず食べるのが大変な頃で、娯楽もなく兵隊から帰った人々を中心にアルコールを飲んでは夜遅くまで騒いでいました。兵隊から帰った元気な人たちは、立川喜久夫さん、川村竹一さん、古関武雄さん、岡山憲一さん、山田夏雄さん等でしたし、女子群と交流していたのは、坂本 さん、福島良蔵さんを中心としたグループでした。麻雀全盛というか、2階の宿直室は2つ、3つと卓が並び、タバコの煙で充満した中でチイ、ポンが飛び交っていました。

 私などは麻雀の仲間に入ったり、別館4階の食堂にあった卓球台で、沓澤寛さんと雌雄を決していたり、それでなければ、アルコールの仲間になって騒いだりしていました。川村さんが盲腸炎になり新橋の菊地病院に連れて行くのが大変だったり、泥棒が入り、洋服を盗まれた人が出たり、小泉さんが東海林太郎の物まねをしたり、ヴォルガの舟唄やステンカラージンを教えていたのもこの時でした。その中で、エチオピアの国歌は東京オリンピックで皮がはがれました。

転職した人々

 敗戦後の東京は食糧の調達が大変だったことも原因の一つだったのでしょうが、技師の下で実務を担当していた古参技手の方々の転職が多くなり、友森肇さん、森安寿さん、桑田幸男さん、安並博さん、山本保さん、谷澤勝二さん、竹内喜一郎さん、北村品市さん、小池清さん、内田牧さん、加藤容三さん等々が中検を去っていきました。

 この頃の私は、谷川さんとの間に堀越さん、川村さんがいるため、責任をもつことも無く、検定をしていればよく、気楽なもので他所の係りへ遊びに行き、野球やテニスの相談ばかりしていました。

谷川さん排斥運動

 計圧器係では係員の数も多くなったため谷川さんの小言も多くなり、横暴だとか、民主的でないとかで反抗的になる人も出るようになりました。民主化などと言う反対が出来にくい言葉が横行する中で、川村さんを前面に出した谷川さん排斥運動が組合委員長(小泉さんだったように思いますが)を巻き込んで始まりました。早くから、谷川さんとの信頼関係を得ていた私としては蚊帳の外的存在ではありましたが時代の流れかとも思っていました。

 谷川さんの小言は、それは「しつこい」ものでしたが仕事上のもので、間違いなく仕事をするための約束事が殆どだったように思いますし、上司を含めた外から指摘されないためのものだったように思います。確かにワンマンで何時雷が落ちるか分りませんでしたが、外に対して係員をかばうことも並大抵ではありませんでした。

 谷川さんは建築を専攻していたようですが、身体に似合わず器用な人で試験機の修理などは完璧だし、手先は器用、作った試験機は特に使いよいものでした。排斥運動が功を奏してか谷川さんが、量衡器係長に移ると共に堀越さんと川村さんも計圧器係を離れ、石井節三さんが係長になり、私もまた次席に戻ってしまいました。石井さんは年配ではありましたが、中検外からの人でしたし、次に係長になった鈴木豊明さんも名古屋支所からの人で、お二人ともなじむのが大変だったと思います。感化院といわれた係で、若い、油だらけの男ばかり、私など係員を扇動しては係長に反抗してばかり、随分と小面憎く扱いにくい男と思われていたでしょう。1948年戦後最初の第40期度量衡講習が始まり、この年、圧力計検定の実習を担当した筈です。この期には20人近くの後に検定所長になられた方々が居られました。

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