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日本計量新報 2008年5月18日 (2724号)より掲載

私の履歴書 鍋島 綾雄  

日東イシダ(株)会長、(社)日本計量振興協会顧問、前(社)宮城県計量協会会長

目次

11 トラックスケールとの出会い 2738号、2739号

 1951(昭和26)年、度量衡法が改正され民主的な計量法が施行された。民間企業の末端にいた者にとってはその過程も分からないし、関心も低かった。ただ当時の計量課長高田忠氏が役所の代表、大和製衡(株)の専務小野竜造氏が民間代表で、この二人のコンビで骨格が出来たというもっぱらの噂だった。その中で私の印象に残っていることが一つある。

 戦前の物資の輸送は殆ど貨車輸送だった。戦後になって自動車産業の発達、そして道路整備が進むにつれてトラック輸送に変わりつつあった。新しい計量法の中でトラックスケールの検定を工場検定にするか、現地検定にすべきか問題になった。

 従来、貨車スケールは線路に埋め込んでの現地検定であったが、トラックスケールも現地に据え付けた状態で検定をすることになると、全国に販路を持つ大和製衡にとっては大変不利になるので小野竜造氏が強引に工場検定を主張して押し切ったという。大メーカーのエゴと言えなくもないが今日のトラックスケールの普及に役立った判断といえよう。

 貨車スケールは全国主要駅に数十台あれば間に合うが、トラックスケールは今日、年間数千台も造られている。

 私はふとした縁でトラックスケールと出会うことになった。東京にT社という社長以下56名の会社があって当時としては珍しくトラックスケールを造っていた。そこへ20キロ分銅500個、すなわち10トンの売り込みに成功した。価格は当時の価格で90万円だから27才の私にとってはかなり大型の商談であった。現金で払うのは大変だというので20トンのトラックスケールを2台バーター取引で引き取ることにした。そこまでは良かったのだがスケベー根性を出してお互いに30万円の手形を3枚づつ相手に払うことしたのが<RUBY CHAR="不味","まず">かった。1枚目・22目は何とか落ちたが最後の3枚目が不渡りになってしまった。

 催促に行くともう少し待ってくれとか、何日には都合できるからとか、終には私が行く日には逃げてしまって帰って来ない。そこでこちらも座り込み戦術で帰るまで待たせて貰う。工場の一隅に社長の自宅があり、奥さんが気立ての良い方で「どうぞお上がり下さい」といって夕食をご馳走してくれる。

 そこに永田さんという年配の設計屋さんが居候のような形で同居していた。永田さんは夜もトラックスケールの設計をしていた。私も手持ち無沙汰だから、社長の帰りを待つ間、永田さんと話をするようになった。そして永田さんは高松の出身でお互い同郷だと分かって益々親近感を持つようになったが、永田さんはそのころ画期的な桿元印字方式を考案して図面化の最中だったから私を捕まえて熱心に説明してくれた。

 この出会いが私にトラックスケールを深く勉強させることになり、これが後々役に立って生涯トラックスケールと関わり合うことになった。

 私が立て替えた不渡りの金は結局回収出来なかった。永田さんと親しくなったことから、永田さんを鎌長(この頃私は鎌長の営業も兼務していた)にスカウトすることに成功した。

 永田さんという優秀な(戦前は三菱の技術者)設計者を迎えたことがトラックスケールの製造に乗り出すきっかけとなり、その後鎌長はトラックスケールのトップメーカーに駆け上がることになる

 

(つづく)

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