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■ 多賀城跡の古碑「壺の碑」の真偽論と天平尺 吉田和彦(日本計量新報99年1月1日号)

政庁第II期の復元図(多賀城市史より)

 芭蕉が元禄二年(一六八九)奥のほそみちを旅した際、伊達領の多賀城跡に立ち寄り、埋もれた古碑を見て「爰に至りて疑いなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれ、泪も落ちるばかり也」と感激した壺の碑が、宮城県多賀城市の平野を見渡す小高い丘陵地帯に、今は覆堂に囲われて立っている。  多賀城は、奈良時代に東北地方征圧のために国によって造られた古代城柵跡の一つで、その拠点となった場所として知られている。

 最近、この城柵の創建は古碑に記されている神亀元年(七二四)と見なす論が再燃しているが、長いこと江戸時代の新井白石(一六五七〜一七二五)が、これは学識の浅い者が書いた偽作であると断じたものをはじめ、諸学者は総じて近代まで偽作説をとり、創建年代特定の論拠からはずされてきた古碑である。

多賀城碑 正面図

 碑の読み下し文の一部を紹介すると「多賀城・京を去ること千五百里。蝦夷の界を去ること百廿里。常陸国の界を去ること四百十二里。下野国の界を去ること二百七十四里。靺鞨国の界去ること三千里。

 この城は神亀元年(七二四)歳が次る甲子に按察使兼鎮守将軍從四位上勲四等の大野朝臣東人が置く所なり。(以下修造部分略) 天平宝字六年(七六二)十二月一日」

 ここで蝦夷の界は、宮城県北の築館町にある伊治城跡あたりを、また下野国との界は栃木県と福島県境の白河の関近辺を指し、靺鞨国の界は中国と北朝鮮との界を指すと言われている。

 奈良時代の里程は和銅の制による六尺が一歩、一里は三百歩がとられている。

 また一尺は、同時代の天平尺(正倉院と法隆寺に伝存するものさしで一尺が二九・七cm)と平城京尺(計量史研究、岩田重雄氏調で一尺は二九・八二cm)を参考にすると碑に書かれた里程が判読出来る。

 しかし最近の本物肯定論は、別図にあるように、碑文の枠を設定した長方形の寸法、縦一二二cmを天平尺四尺。横七九cmを同二・六尺として論拠の一つにあげているが、これには少なからず疑問を感ずる。

 これによると一尺が三〇・四〜五cmとなり、江戸時代に入るまで伸長を続けて来た尺度寸法が、その伸長が止まり、ほぼ現在の尺度と同じ長さになった頃の寸法となり、碑の本物肯定論と逆の検証をやったことになるのではないか。

 蛇足で言えば、長方形の横・縦の比が一対一・五四と近世的な感じがしないでもない。古代の建築物の長方形を見ると、正方形またはこれに近いものが一般的なような気がする。  碑はともかくとして、多賀城跡の一部復元計画があると聞く、同じ時代の盛岡の志和城が一部復元されたが、多賀城は朱を施した美しいものであったらしく、完成を今から楽しみにしている。

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■ わずか秤の事 野口泰助(日本計量新報99年1月1日号)

魁本対相四言雑字 塵添■嚢鈔 和名類聚抄

 秤の事を調べようとすると、はかり知れぬ程の文献がある。手近な資料二〜三の内から一寸ばかりコピーで紹介。研究の発端になれば幸いと思います。

 一月二十三日から二月二十七日、埼玉県熊谷市の文化センター(熊谷駅の南約二〇〇メートル)で江戸・明治の庶民の科学展を開催。

 計量器具としては、明の裁衣尺・韓国の布帛尺、日本の物も雛形尺、鋳物尺、ロープゲージ、玉尺などのものさし、江戸枡、京枡、鎮台枡、紙製枡、中国の漢の枡、秤も守随、神、私製などは勿論、貨幣試し、繭の雌雄鑑別器、また温度、湿度、比重、あるいはレコードの回転計に測量器の小方儀、逆盤、分廻し、又計算具として算木、籌、古そろばん、その他 天文の星図から動植鉱物あるいは電気、と医学まで展示しますが、立体的の物というと計算が大半となると思います。

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■ 「卑弥呼の鏡」に曲尺はあったか 吉田和彦(日本計量新報97年8月24日号)

 八月一日、大阪の高槻市の古墳から「方格規矩四神鏡」と「三角縁神獣鏡」が発掘されたことが報道され、全国的な話題を呼んでいるので、方格規矩四神鏡について考えてみた。

 青銅鏡は古代中国の戦国時代初期のBC四六五年頃、初めて作られ、その流行期は二四〇年後の戦国時代末期といわれており、その価値はあくまでも鏡としての実用性にあり、これを裏付けるものとして、ロンドンの大英博物館に東晋時代の「化粧」という画が大切に保存されている。 これが約四七五年後の魏の時代に邪馬台国に下賜され、卑弥呼が使い始めたときは祭祀用として、木に吊るし拝ませ、神秘に満ちた使い方となる。それが現代まで及び、神社のご神体となり、また皇室の天皇承継の三種の神器の一つ、八咫の鏡などとなって一般の目の届かないところに置かれるようになっている。

 鏡の紋様は、四神とか神獣とかの文字を見て分かるように、古代中国の宗教である道教の色彩が濃いものと一般的な紋様に分けられるようだが、邪馬台国に下賜されたものは卑弥呼の希望も強く働いたのか、前者の宗教的色彩の濃いものが多く発掘されている。その中で「方格規矩四神鏡」に属する鏡がかなりの割を占めているので「卑弥呼の鏡」といわれている。

 我が国では古くから建築技法として「規矩術法」という曲尺(指矩・さしがね)と墨出しの糸を使う技法があったので、次のような規矩の概念が一般に抵抗なく受け入れ易い下地があった。

 「方格規矩四神鏡」の規を表すVはコンパスで、矩を表すLは、さしがねを表現し、方格は遙か宇宙を表現しており、これに四神の白虎・玄武・青龍・朱雀を配した紋様は、八子九孫までその繁栄を約す道教の神仙思想が基になったといわれる解釈については、特に抵抗を感じないでいた。

 しかし、よく考えてみると方格規矩鏡は、前漢時代のBC二〇〇年頃からのものであるので、中国でその時代前後において曲尺またはこれに類するものが存在していなければならない。

 これが未だ見つかっていないということは、鏡の規矩は存在しない、とかなり明確に言い切れるのではないか。  そうなると方格の辺に配したTVLの紋様は一体何を表わしているのか、新たな解明が待たれる。

 参考図は平成六年三月、京都の丹後で出土した同型鏡の解説図である。  (岩手県計量協会理事)

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■ 中国の分銅(法馬) 野口泰助(日本計量新報97年8月17日号)

 法馬といっても現代の若い人達には何のことかご存じないと思う。繭形の分銅で、両替え天秤に用いたので、地図の上で銀行を示すマークで目にするくらいである。

 日本では江戸時代に大判小判を製造した後藤家が刻印した物以外は使用を禁じられていた。この形は古く中国で使用していたものの模倣である。というも中国での現存は少なく、一九八一年に刊行された「中国古代度量衡図集」に南京博物院蔵の「肆両銅法馬」一点を見るのみであって、これも出土品で一七世紀後半の物である。最近私が、群馬県で中国の拾両と肆両の二つの法馬を入手、これは珍しい物かと思ったので紹介しておきたい。

 拓本で見ても日本の後藤製と比較して、素朴なことが知れる、側面も中国製のほうは丸味がある。岩田重雄先生が申されるに、重さから見て一五七〇年前後とのこと。以前私が関西で入手した 銭の法馬が一五世紀後半というから、それに次ぐ古い物と思っている。(神奈川・日本計量史学会 会員)

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