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著者略歴

北本舜輝北本舜輝(きたもと・きよてる)
(社)茨城県計量協会副会長、計量士部会長。
研精工業(株)および(株)エー・アンド・デイで、機械式天びんや電子式天びんの開発設計製造に取り組んだ。

INDEX
 『日本計量新報』2881号(2011年8月7日発行)より連載
著者略歴      
0.はじめに 1.父母は鳥取県の出身 2.小さい頃は 3.中学時代の苦い思い出
4.工業高校の施盤実習 5.鋳鉄管メーカーに入社 6.前田先生との出会い 7.卒業後の進路を決める
8.研精工業に入社 9.茨城県下妻市へ工場移転 10.独ビゼルバ社へ研修 11.ドイツの休日
12.「懸濁物質自動監視装置」の開発 13.一般計量士試験受験 14.電子式天びんALSEP「EE」の開発 15.水産庁に「耐動揺船上はかり」納入
16.計量士としての代検査 17.「はかり団地」での生活 18.電子天びんALSEP「EGシリーズ」の開発 19.(株)エー・アンド・デイに転籍
20.電子天びんA&D「EX、EYシリーズ」開発 21.電子天びんA&D「ER180シリーズ」開発 22.電子天びんA&D「FX・FYシリーズ開発 23.海外展示会
24.電子天びんA&D「HXシリーズ」開発 25.研精工業(株)に出向 26.品質保証規格ISO9002取得 27.指定製造事業者を取得
28.研精工業(株)社長に就任      
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はじめに

 私は、1942(昭和17)年、大阪府門真町(現・門真市)に生まれました。府立淀川工業高校を出て、鋳鉄管メーカーで水道用バルブおよび高炉用バルブなどの設計をしていました。
 私が計量の分野と出会ったのは、メーカーに勤務しながら通った大阪工業大学で、前田親良先生(現・常翔学園理事〔理事長代理〕)がおられた「計測研究室」に学んでからです。
 大阪工業大学の機械工学科を卒業すると同時に、研精工業(株)に転職いたしました。その後は、研精工業(株)および(株)エー・アンド・デイにて機械式天びん(直示天びん)や電子式天びん(電磁式はかり)の開発設計製造に取り組みました。
 現在は、(株)茨城県計量協会副会長をしています。趣味は、絵を描いたり、プロ野球(好きなチーム:阪神タイガース)を観戦すること。これから、私の「履歴書」を書き進めながら、折に触れて絵の方も紹介させていただきたいと思います。

<天びんではかる>
父母は鳥取県の出身

 父母はともに鳥取県出身です。
 父は師範学校を卒業後、広島県、栃木県、愛知県そして大阪府などで高校教師をしていました。
 その間、東京駒場の農学校(筑波大学農学部の前身)にも学んだそうです。その頃は、代々木上原の下宿から「旧前田侯爵邸洋館」(1929〔昭和4〕年完成)の横の道を歩いて通っていたようです。最近になって、当時の父が書いた地図付きの手紙が見つかり、私もその足跡を訪ねたくなって、早速散策してきました。
 農学校は、現在の駒場野公園と駒場東大キャンパスの両方を含む広大な敷地だったそうです(さらに昔を辿ると、この地は「将軍の鷹狩り場」だったらしいです)。その面影は、井の頭線(1933〔昭和8〕年開通)の側にある「ケルネル田圃(たんぼ)」に今も僅かに残っています。ケルネルとは、農学校のドイツ人教師だったオスカル・ケルネルの名前に因んでいます。
 この付近に建つ筑波大学付属駒場中学・高校では、この田んぼにおいて毎年田植え、稲刈りをしています。収穫した米は入学式と卒業式の折に赤飯にして、新入生および卒業生に供し、文化を伝承しているそうです。
 母は小さい身体(約140cm)で、5人の子供を育てました。その小さな体で、私の知る大阪府内だけでも6回も引っ越ししています。
 母は喘息持ちだったのですが、比較的空気のきれいな大阪市旭区淀川堤防近くに住んでいた時は症状がひどく、特に夜ひどく咳き込んでいました。ところが、同じ旭区内のバス通りにある排気ガスが多い所に引っ越してからは、不思議と治ってしまいました。転地療法になったのか解りませんが、母が「喘息は、空気の良し悪しでないわ」と話していたのを覚えています。

日の出<日の出>なでしこジャパン
<なでしこジャパン>
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小さい頃は
 私は、太平洋戦争敗戦後の食糧難時代に育ちました。当時は、麦ごはん、うどん、そばがあればいい方で、主食に雑炊、サツマイモを食べていました。5人兄弟の4番目で、食事はウカウカしていると無くなってしまう環境でした。その頃についた癖か、今でも食べるのが早いのです。
 家族は私が小学校に上がる時に門真町(現・門真市)から大阪市旭区に引っ越しました。その時は大八車を押しての引っ越しで、車が土の道路にめり込んでしまったのを幼いながら覚えています。
 小学5年生の時には、大阪市旭区の児童数が急増して教室が不足したため、午前の部と午後の部どちらかの授業を受ける「2部授業」を体験しました。午前の部の時は問題ないのですが、午後の部の時は、全く勉強になりません。朝はいつもの時間に登校して午前中ずっと校庭で遊んでいます。午後になって、まず給食を食べてその後に授業です。これでは、眠くなってしまいます。
 その頃、相撲が大好きで、僅かな休み時間にもよく校庭に出て、相撲を取っていました。
 当時の大相撲は太鼓腹の鏡里、巨漢の千代の山、そして相撲人形のような吉葉山が横綱を張っていました。公園に設置されていた街頭テレビの大相撲中継を観に行ったこともあります。
 力士の体重は「kg」ではなく「貫」で表していたと思います。それぞれ44貫、32貫、38貫というように。
 小学校5年生から6年生になると、大相撲の放送を自宅のテレビで観られる友達も出てきました。その彼は「ひょろっと」した体型で相撲は弱そうでした。ところが、私は押しだし、吊り出しくらいしかできませんが、彼はテレビで大相撲中継を見ているので「技」が得意なのです。上手投げ、うっちゃり、内掛け、などで負けてしまったことを覚えています。
 また、ラジオ放送では夕方6時からの「子供の時間」をよく聞いていました。
 その時の連続ラジオドラマといえば「鐘の鳴る丘」「新諸国物語 笛吹童子」「新諸国物語 紅孔雀」で、後に映画にもなりました。
 ラジオドラマの前、午後6時の最初に5分間の「子供ニュース」がありました。子供ニュースは、必ず、「こんばんは、東京は晴れて暑い日でしたが皆さんの所はどうでしたか?」という言葉から始まります。毎日、このフレーズを聞いていると「東京ってどんなところだろう?」と思うようになり、1度は行きたいという気持ちになったのを覚えています。このことが、その後の私の進路に大きく影響しました。
 今も、テレビには「新宿副都心の高層ビル」や「渋谷スクランブル交差点」の様子が、映像でよく出てきます。いつの時代も、私のように1度は東京で学んでみたい、就職して東京に住んでみたいと思っている人は、多いのではないでしょうか。
にがうり
<にがうり>天びん座の祈り
<天びん座の祈り>ひまわり
<ひまわり>
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中学時代の苦い思い出
 中学の頃は、冬になると大阪市旭区と城東区(現在の城東区、鶴見区)に所在する中学校12校を巡る駅伝競走大会がありました。陸上競技、とりわけ長距離は得意な方でしたので、2年生の時に出場選手に選ばれました。もともと私の通っていた中学校には陸上部はありませんでした。そこで、にわか陸上部員となり、その大会直前2週間くらい、出場メンバー12人と放課後、練習に励みました(と言っても、3kmくらい走るだけですが)。
 大会の前日に、走る順番が発表されました。なんと、私は第1区、スタート走者です。その時点から、走って次の学校に入った時の皆の歓声が頭に浮かび、眠れませんでした。
 案の定、当日になっていよいよスタートラインに着くと、足が宙に浮くような感じで、文字通り舞い上がってしまいました。そして、走り出すと、やはり、にわか陸上部員では日頃から毎日練習している他校の選手にはかないません。100mも走らないうちについていけなくなりました。それでも、何とか5kmくらいは走ったと思いますが、次の中学校の手前まで走って来て、沿道の両側から大勢の生徒の声援がくるようになると、頭が真っ白になって何も分からなくなりました。結果は12校中11位でした。タスキを次のランナーに繋げたのが、せめてもの救いだったと思います。
 「学校巡り駅伝競走大会」を指導したのは、私の担任のH先生でした。それ以来、何かH先生とは気まずくなり、私の通信簿の中でただ一つ「5」であった科目「体育」も、それ以来「3」になってしまいました。苦い思い出です。
 学生時代は選手になるくらいにランニングは得意な方でしたが、最近走ってみて驚きました。1分間も連続して走れないのです。半年前ウォーキングから始めて、やっと30分間連続して走れるようになりました。と言っても、皇居外周2周ラン10km競技に参加してやっと制限時間いっぱいの1時間半で完走しました。まだまだです。
 現在は、毎日自宅の近く(7km)をウォーキングしています。そして週に1回、公園のジョギングコース2周(5km)を、休憩せずジョギングするように心がけています。
 今後の目標は、次の2大会に出場することです。
 まずは、東京マラソン10kmレース(東京都庁〜日比谷公園)。過去3回エントリーして抽選漏れしています(定員3000名に対して応募者13倍)。
 それと、今年から始まる大阪マラソン8・8kmチャレンジラン(大阪城公園前〜大阪市庁前)にも早速エントリーしましたが、こちらも抽選漏れしています。(定員2000名に対して応募者8倍)。
 「東京マラソン2011」で市民ランナーながら日本人選手1位に輝いた川内優輝選手のことを応援しています。川内優輝選手は私の住む埼玉県久喜市の出身なのです。8月27日から韓国・(テグ)で開催される「世界陸上競技選手権大会」の活躍(男子マラソンは9月4日)に大いに期待しています。
東京マラソン<東京マラソン>ウィンドサーフィン<ウィンドサーフィン>ミニトマト<ミニトマト>
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工業高校の施盤実習

 1958年(昭和33年)、大阪府立淀川工業高等学校(現・大阪府立淀川工科高等学校)に入学しました。工業高校では、1週間に1日(5時間)実習がありました。その日は机の授業から解放されます。
 まず、2年生の時に、木型製作、鋳造、機械加工、仕上げ(ヤスリ)、塗装、組立を順次実習します。3年生になると、実習で造った製品を販売する「卓上ボール盤」の製作です。そこで各実習班配属になります。私は、旋盤加工班でした。その当時としても旧式になりつつあった段車旋盤が、ズラリ30台はあったと思います。コンピュータープログラムで動く今の旋盤と違って、操作を間違えてウカウカしていると怪我をします。加工しているとそれだけに夢中になって、どうしても削っているバイト(刃物)の近くに顔を持っていくので危険です。私も一度、そのバイトの先端(チップ)が剥がれて鼻に飛んで来たことがあります。何週間かの怪我で済みましたが。
 そんな関係で、今でも段車旋盤が好きです。鉄道マニアの人が蒸気機関車が好きなように、古い機械に愛着を覚えます。最近も何枚か趣味の油絵に画きました。
 高校では野球部や美術部の活動をしたかったのですが、学費を納入するのもやっとこさなので、とてもバット、グローブなどの野球用具や、絵具やキャンバスなどの高価な絵画道具までは買ってもらえません。それで、特別な用具の要らないバレーボール部に所属していました。たぶん、今でしたらサッカー部の門を叩いたと思いますが、当時はGHQ(連合国最高司令官総司令部)の影響でしょうか、小学生の頃から野球、野球と、野球だけは熱心に指導されました。サッカー部はその有無さえも覚えていません。
 当時のバレーボールは9人制が普通で、自分たちとしては、放課後から暗くなるまで熱心に練習していました。しかし、今、振り返ると、顧問の先生や先輩が練習場に来られて指導を受けたことは一度としてなく、ゆるーいサークルだったのかな、と思っています。ウサギ跳び、腕立て、指立てなどで身体は鍛えられましたが。
 府立淀川工業高校ではその頃、ラグビー部が花形でした。年末から正月にかけて花園で行われる全国大会にも13回出場、私が卒業した後の1966年には「ミラクル淀工」とまで称せられて、準決勝まで進んでいます。
 私の在学中はまだありませんでしたが、現在の花形は吹奏学部です。有名な丸谷明夫先生の指導により全日本吹奏学コンクール高校の部に32回出場しており、金賞獲得回数21回は全国最多となっています。 

<手動施盤><段車施盤><手動施盤2><カボチャ>
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鋳鉄管メーカーに入社

 1961年に工業高校を卒業して、すぐに大阪の老舗鋳鉄管メーカー(株)栗本鉄工所(創業1909年)に入社しました。工場は大正区千島町です(後に工場移転して、その跡地は「千島公園」になっています)。まず、第1に驚いたのは、大阪市内でも住宅地が多い旭区と、海に近く工場が多い大正区の空気の違いです。
 当時は公害が問題視される前で、環境汚染まっただ中、歩いていると灰が降ってくるようでした。工場に1日行って帰って来ると、カッターシャツも何もかも灰だらけです。ただ、自分の勤務している工場からも出しているのですから、文句も言えません。
 当時、水道用バルブは弁の開閉を手動ハンドルから電動ギア式に変換する時期にありました。そこで、設計図面を書き換える必要がありました。
 また、高度成長期で製鉄所の高炉建設も盛んに行われており、次々と大型高炉用のバルブを必要とする時期でもありました。
 現場の据え付け担当者から、「他の装置の配管とぶつかって取り付けられない」との問い合わせ。こんな時に設計担当者が呼び出されます。それに対処するため、現場で打ち合わせて「反対勝手」(非対象の場合は当たらないように取り付け方向を逆にすること)にするか、接合部パッキンの厚さを変えて取り付け位置をずらすか検討します。それでも解決しない場合は、お互い打ち合わせて何とか据え付ける。バルブは数トンもあり、実際の作業は専門資格を持った担当者が行います。
 「私の履歴書」欄の前の執筆者である高徳さんのおられた、川崎製鉄(株)(現・JFEアドバンテック(株))千葉製鉄所にも行きました。
 ある日の朝、工場に出社するとすぐ出張指示が出ました。その日はあいにく雨で、家から履いてきたゴム長靴を履いて東海道新幹線に乗りました。その頃、新幹線はまだ、開通して間もない頃(1964〔昭和39〕年)で、おしゃれをして乗っている人が多い中、作業着でゴム長靴の乗車です。目立ちました。
 その川鉄千葉の第5溶鉱炉の火も消え、高炉その物も解体という噂を聞きます。隔世の感があり、寂しい限りです。

 1963年から67年までは、メーカーに勤務しながら、夜間の大学にも通っていました。
 現在は「設計開発作業」は大学工学部や大学院卒業生で占められています。しかし、当時は工業高校卒も雇用していました。ところが、入社して解ったのですが、大学工学部卒の割合が年々増えてきていました。そして、新しい設計作業は大学卒の社員が担当しており、高卒者には不利な環境でした。
 もっとも今考えると、会社の将来を左右するような新しい設計作業を20歳前後の社員に任せるのは上司の責任者として不安を感じるのだろうと理解できるのですが。
 同じ工場にも夜間の大学に通っている人が何名かいました。そこで、私も会社に入って3年目に入学試験を受けました。
 工場の就業時間は朝8時から午後4時前までです。そして、大学は午後5時半授業開始です。また、自宅は大学から徒歩で30分くらいの所にありました。ですから通うのには問題はありませんでした。大学まで2時間以上かかる、奈良方面から通っている学生も沢山いました。
 そうは言っても、仕事が終わって1時間以上かけて学校に着くと、やれやれ、と一息ついてしまい、授業が始まって30分くらいすると眠ってしまうことがたびたびありました。そんな中、ドイツ語の授業は今まで習っていた英語とは違って男性名詞や女性名詞があったりして目新しく、また、その担当の先生はドイツの文化習慣なども随時に話されて面白かったので、一番前の席に座って笑って授業を受けていました。ところが、期末試験は授業とは一転したまじめな内容の問題で、単位取得にはなりませんでした。

<勝利の女神がやってきた><秋近し><サイロの有る風景><バルブ新幹線><紅葉>
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前田先生との出会い

 大学3年次の時に学生自治会の委員をしていました。
 その頃はまだ学生運動の盛んな時で、政治活動をしている学生も大勢いました。そんな中、私は大学祭の実行委員をしていて、現在の自治会委員とあまり変わらない活動をしていました。
 3年次後半になってから志望の研究室を選択しなければならない時期になって、同じ自治会委員仲間の蔵敷君に相談すると、自治会の先輩である西村さん(セイやん)のいる増尾研究室(「計測研究室」)が面白そうだと、情報をつかんできました。
 増尾研究室は指導が厳しく単位の取得は難しいとのことです。それで、研究室の学生数が少なく、逆にじっくり勉強できるということでした。そこで、蔵敷君といっしょに、増尾研究室の講師であった前田先生の講師室の扉を叩きました。
 その頃、他の研究室は詳しくは分かりませんが、だいたい20名から多い研究室は50名くらい学生が所属していたようです。
 一方、当時増尾研究室に所属していたのは、増尾竜一教授(故人)、前田親良講師(教授後、現・常翔学園理事〔理事長代理〕)、三船正助手(教授後、退任)。そして学生(研究生)は私と蔵敷君を含めて、全員で6名です。
 ですから、実験中は遅くなると先生と一緒に研究室に泊まったり、学校の近くの飲食店に行ったり、正月や春秋には増尾先生宅と前田先生宅、そして三船先生宅を訪問したりしていました。
 その頃、前田先生は学校の近くのアパートに住まわれていましたが、研究室に泊まりこんで研究されていることも多かったです。ですから、授業の終わった後、梅田などの繁華街に繰り出して、午前様になってから大学に帰ったこともあります。
 研究室仲間の蔵敷君(ユーさん)は、機械実習工場の指導員として勤めながら通っていました。卒業後は高校教師をしていました。研究室の補助員の坂本君は卒業後、シールメーカーに就職しました。卒業後は畑違いのホテルのオーナーになった山岸君(ボンちゃん)。後輩に人気があった戸田君は卒業後大型鋼管メーカーに就職しました。広岡君は、実家がお寺でした。
 卒業研究は「ダイヤルゲージによる真直度の測定」でした。その頃、ダイヤルゲージの高精度のものが出始めましたので、それを使って卒業研究論文をまとめて学会でも発表しました。
 この研究は蔵敷君と私と二人で行いました。他の4名は「はかり」の研究をしていました。我々も、先輩諸兄の継続の「はかり」の研究をしたかったのですが、多分、その時は前田先生が「ひょっとして途中で投げ出すんとちゃうか」と不安を感じられたのではないかと思います。
 今でも、計測研究室の卒業生の会「竜の子会」では、毎年岐阜県下呂温泉で会合が開かれています。
 岐阜県下呂温泉の「下呂ロイヤルホテル雅亭」は、同窓生の山岸君が経営するホテルです。私より先輩もおられますが、ずっと後輩の研究室卒業生もいます。前田先生ご一家と三船先生も出席されて和気あいあいの会合です。

<心臓をはかる3><天びん座を翔る><イルカホテルとユミヨシさん(村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』より><下呂温泉龍神火祭り>
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卒業後の進路決める

 卒業時にこれからの進路を考えた時に、これまでに勤務した経験から、大型バルブの新製品開発改善は費用も多額を必要として、簡単にはいかないと感じていました。一方、天びんやはかりはそれに比較して小型であり、しかも精密機械関係は開発投資も多いという情報を得ていました。一度は東京で働きたいと、小学生の頃から思っていたこともあり、転職することにしました。

<稲穂>
研精工業(株)に入社

私は1967年(昭和42年)春に研精工業(株)に入社しました。
 研精工業(株)はその頃、販売契約をしている(株)東京衡機製造所(現・テークスグループ)大崎工場(東京都品川区)の3階のフロアで製造していました。従業員も50人ほどの小さな会社でした。しかし、入社前に工場見学した時に、面接して頂いた吉川貞男社長(故人)の「新しい天びん開発」に対する並々ならぬ意欲に感銘して入社しました。
 研精工業(株)は1955年(昭和30年)神奈川県川崎市で吉川貞男氏により創設されました。
 創業時は「基準天びん」を製造していたそうですが、その後間もなく、「直示天びん」(分銅を天びん本体に内蔵して、その分銅を外部ダイヤル操作で加除する装置を付属した天秤)を開発しています。
 それまで一般的に使用されていた「手動天びん」(化学天びん)は、使用するときに、別途に組分銅を用意する必要がありました。しかし、「直示てんびん」は分銅を天びん本体に内臓しているので、その必要はありません。
 分銅を加除するダイヤル操作の回転方向が投影目盛の上下で指示されますから、それに従って大きい分銅の加除用ダイヤルから小さい分銅の加除用ダイヤルの順に操作をすれば、自動的に質量値が測定できます。測定時間も短縮され、1分もあれば測定できるようになりました。「手動天びん」より、ひと桁は計量スピードが上がったと思います。

意欲作Pointer「7D型」
研精工業(株)は1965年(昭和40年)、Pointer「7D型」(ひょう量160g、感量1mg、読取限度0・02mg)という直示天びんの開発製造に成功しました。
 この「7D型」は、研精工業(株)の直示天びんとして5代目で、初のアルミダイキャストケースであり、多額の費用を投じた意欲的な新製品でした。
 さらにこの年、研精工業(株)初の上皿直示天びん「TOP−200」(ひょう量200g、感量10mg読取限度2mg)が、開発製造されました。
 これらの製品は松平一男さんが中心となって開発されていました。彼は、図面がなくても頭の中に天びんの機構と部品の形状寸法が入っていて、いろいろな部品を次々自分で加工して作ってしまいます。いわゆる“天びん名人”です。

直示天びんPointer「7A型」「8A型」の開発
 私が入社した当時の仕事は、このPointer「7D型」直示天びんの簡易型にあたる「7A型」や、風袋引装置付き「8A型」などのシリーズ化をすることでした。
 私は開発課に配属されました。当時、私を入れて5名です。直示天びんには「7A型」「8A型」の「下皿式」を開発するチームと、皿が天びん本体の上に位置して、より使い勝手を良くした「上皿式」を開発するチームに分かれて平行に作業していました。
 松平さんには、天びん最終調整などの精度に関わることは必ず見てもらっていました。
 直示天びん「7A型」(ひょう量200g、感量10mg、読取限度0・1mg)では内臓分銅加除(手動ダイヤル操作で天びん内部の分銅の掛け外しが行える)の分銅数を少なくして、ひょう量160gを200gに増加しました。
 感量は1mgから10mgに1桁粗くなりましたが、内臓分銅の数が1桁(4個)少なくなったため、操作もそれだけ簡単になり、コストも削減しました。
 風袋引き装置のある「8A型」(ひょう量200g、感量10mg、読取限度0・1mg、風袋量1g)の開発設計にも取り組みました。
 直示天びんの風袋引きは、それまで風袋引き用内臓分銅が別に内臓されていました。
これを、恒弾性ばね材(温度が変化してもばね定数の変化が小さいばね)を使用した物に取り替えました。もうひとつの特徴は、未知の被計量物を皿にのせた時、分銅加除の位置が即時に分かるように、直示天びんにばねはかりを内蔵したような構造にして、分銅加除時間の短縮をしたことです。

「電子式ラべリングスケール」の開発
1968(昭和43)年、大阪工業大学および(株)東京衡機製造所(現・テークスグループ)と立石電機(株)(現・オムロン(株))と研精工業(株)共同で「電子式ラべリングスケール」(パルスカウンター方式 ひょう量1kg、最小表示1g)の開発に取り組みました。
 このはかりは、当時、肉屋さんやスーパーなどで使用され始めた料金はかりとラベルプリンターを組み合わせた計量機です。構造は、皿に被計量物を乗せると、目盛板つき振り子が1周期する間にその目盛板の目盛の本数を光学センサーで短時間に読み取り、重量をはかるというもので、当時としては画期的な方式でした。支点部に、大阪工業大学で考案された『偏心円柱刃』(刃と刃受けの支点位置の変化を避けるため、刃と刃受けの接触点を一点になるよう刃先を偏心させ、転がり接触になるようにして、すべり摩擦や支点位置の変化を小さくする方式)を採用するなどして、計量速度と精度の向上を狙いました。
 この時、立石電機(株)の研究所を何度か訪ねました。会社規模の大きさから当然と言えば当然ですが、開発環境の違いに驚きました。2階が開発設計者の設計フロアになっています。1階は試作工作室になっており、当時、最先端の工作機械がずらりと並んでいました。試作部品の図面を2階で画いて1階に図面を持っていけば直ぐに製作できるということでした。この時にも何度か加工してもらいました。
 1969年、このプロジェクトについて、(株)東京衡機製造所の津田氏が、計量会館で計量関係者に新技術として講演されることになりました。ところが、津田氏は直前になって急に欠席されることになりました。そこで、急遽ピンチヒッターとして、計量界の大先輩の方々に大変僭越でしたが、私が代わりに講演させていただきました。後にも先にも、計量会館で話させていただいたのはこの1回きりです。
 この計量システムは、当時晴海で行われていた計量関係展示会に何回か出品しました。実験段階で、強固な天びん台に設置して取ったデータは良好でした。しかし、一般の机の上では振動や風などの影響を受けやすく、その後開発された電磁式はかりやロードセル式はかりにとって代わられる結果となりました。

<手動天びん><正義をはかる><瓢箪モビール><彼岸花><ひょうたんLED天びん><女神が運ぶホームランボール><幕張の庭園より><黒い帽子の女>
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茨城県下妻市へ工場移転

 研精工業(株)は1969(昭和44)年春、茨城県下妻市高道祖(たかさい)「東京はかり工業団地」に移転しました。このとき、天びん、はかり、トラックスケール、タクシーメーター、トルクレンチ、電子基板製作などのメーカー10社が一斉に東京から工場移転しました。
 はかり工業団地は筑波山麓の丘陵地帯で風光明媚な林の中にありました。「つくば研究学園都市」の高エネルギー物理研究所の北方5kmの位置、ところが、当初は筑波大学もまだ開校しておらず(1973〔昭和48〕年開学)、学園都市内の道路も工事中でした。(独)産業技術総合研究所もまだ筑波に移転していません(1980〔昭和55〕年移転完了)。工場の周りもまだ砂利道です。私は自家用車もまだ持っていません。工場と住まいは隣接していて、毎日の通勤には困りませんが、ちょっと買い物に出るのには、1日4本しかないバスに乗るか、町まで片道5kmの道を歩くかです。

結婚
 工場移転から少し時を遡りますが、私は、東京大崎にいる頃、品川区主催の成人学級デッサン教室に通っていました。ブルータスやメディチなどの石膏像デッサンや人体などのデッサンにも通いました。道具は木炭と木炭紙、そして大きな画板があればOKです。教室が終わってからは彫刻家の森先生(故人)のお宅にお邪魔したり、また春と秋にはスケッチ旅行にも行きました。
 その教室に現在の妻もいました。結婚したのは、工場が移転した1969年のことです。私は大阪生まれ、彼女は東京五反田生まれ。「東男の京女」が世間では似合いと言いますが、その逆です。はじめは言葉がきついので怒られているみたいでした。今でも、時々近くの公園などに2人でスケッチに出かけます。
 下妻市に引っ越した頃は、お互い都会育ちのため戸惑いもありました。特に、常磐線「土浦」駅から、1両か2両のディーゼルカーが走る関東鉄道筑波線(1987〔昭和62〕年廃線)に乗り換える時は寂しかったです。
「土浦」駅前の商店街では、その当時「予科練の歌」が流されていました。まだまだ戦中戦後の空気がそのまま残されていました。
 下妻市はかり工業団地に来て、生まれて初めて広々とした田園地帯を日々観ることになりました。

上皿天びんALSEP「TOPーE」の開発
1969(昭和44)年、上皿天びんALSEP「TOP−E」(ひょう量200g、最小目盛0・1g)の設計に取り掛かりました。
 「TOP−E」の開発は、研精工業(株)の天びんシリーズの中でこのクラスの機種が必要だ、という意見と、この下妻市の「はかり団地」に工場移転した記念すべき新製品が必要だ、という意見から進められました。
これは内臓分銅型の「皿手動指示併用はかり」です。この分野のはかりは以前より、他メーカーより販売されていました。そのため、先行する商品に似ないよう、デザインなどを大きく変更する必要がありました。そこで、皿の上がフラットな構造として前面に目盛板を設けて針を上から下に移動する構造としました。
 この機種は当初は20人くらいで製造しましたが、担当の粟野さんの努力による作業改善で作業者が徐々に減っていき、最終的には数名で作れるようになりました。
 この機種は、後に(株)エー・アンド・デイと業務提携するまで、14年間に及ぶ長きにわたり製造することになりました。

光電式料金はかりの開発
1971年(昭和46)年シャープ(株)からの依頼で、「料金はかり」(光電式はかり)EW−3000(ひょう量3kg、最小表示2g)を開発することになりました。
 月に1000台製造するという注文です。当時としては勿論、今でもそうだと思いますが、かなり規模の大きな計画に、こちらとしては驚きました。聞いてみると、その当時、シャープ専属の代理店が全国に2000軒あり、その内の半分で月に1台を売れれば1000台売れるとのことでした。
 光電式はかりは、ばねはかりの指針が回転する代わりに、目盛版に代わるエンコーダーが回転する構造です。
 私は、ロバーバル機構(平行四辺形機構:上皿はかりの皿が被計量物を乗せた時に転倒しないようにする機構。平行四辺形の垂直辺の片側を天びん本体に固定して、その反対側の加動辺に皿を取り付ける。皿が揺れなくなるので計量速度の短縮になる)と、センサー部分などの機構部を設計することになりました。
何回か、打ち合わせのためにシャープ(株)の奈良県郡山工場に通いました。プロトタイプは機構部と外装部分、すべてを(株)研精工業で製作しました。
 量産試作の打ち合わせの段階になると、シャープ(株)社内の工業デザイナーの方が出席されました。私はもともと工業デザインには興味がありましたので、熱心に聞いていました。
 ひとつの案件は、皿の上に障害物がある構造にするか、フラットの構造にするかということです。当時、先行していた3社の光電式はかりは、皿の横に単価、重量、価格表示が縦に並ぶデザインになっていました。そこで、斬新なデザインを強調するため、単価、重量、価格表示を皿の下に1列に並べるデザインに決まりました。
 もうひとつ、その時、問題になったことがあります。はかりケースが上ケースと下ケースに分かれる構造になっています。上ケースはABS(プラスチックケース)地肌ケースなのですが、下ケースをアルミダイキャスト塗装ケースにするか、ABS地肌ケースにするかで大問題になりました。一番の論点は経年変化です。下をアルミダイキャスト塗装ケースにすると、上下の色の経年変化が発生して、製造時と何年か経過した後では外装の色の印象が違ってくる。これをどうするか、どう考えるかという問題でした。この日はこの論争だけで打ち合わせ時間が終わってしまいました。
 その後、最終的には塗装コストなどを考慮して、上下ケース共にABS(プラスチックケース)地肌ケースとなりました。ただ、塗装をしないと傷が目立つため、製造時はケースの僅かな傷も問題になることになりました。
 完成後、この製品がデパートで使用されていると聞いて見に行きました。
 お菓子売り場のはかり売りのコーナーなどで使われていました。感慨無量でした。知人の肉屋さんでも購入して頂き、お礼方がた使用状況を見に行きました。
 肝心の販売結果は、1、000台どころか月100台から200台でした。その結果、シャープ(株)としては数カ月の製造販売で撤退してしまいました。しかし、研精工業(株)としては100台から200台でも販売できれば大成功です。研精工業(株)では商用はかりの販売網は持っていなかったため、主に「個数はかり」(単重、重量、個数を表示し、ソフト、ハード共に商用はかりとほとんど同じ)としてその後も製造販売していました。

<石膏デッサンメヂチ><心臓をはかる5><上皿天びんTop-E><裏磐梯五色沼より><ラベンダーセージ><横浜赤レンガ倉庫2号館><心臓をはかる4><ばね式料金はかりEWでひょうたん阿修羅をはかる><隙間の大樹><ゲゲゲの女房>
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独ビゼルバ(BIZERBA)社へ研修

私は、1972年(昭和47年)1月から独ビゼルバ(BIZERBA)社の「振り子式料金はかり」をOEMで製造するため、(株)東京衡機製造所(現・(株)テークスグループ)の久米氏と共に、ドイツ研修に行きました。
 ビゼルバ社は1866年創業のドイツの食品加工装置企業です。世界100カ国以上に輸出しています。日本では機械式料金はかりの時代からひょう量3000g、最小表示量1gの「料金はかり」がデパートなどでも使用されており、高い評価を得ていました。
 OEM製造しようとしていたのは、ビゼルバ社の振り子式はかりの機構部は変更しないで、質量目盛料金表示部分を光学投影式から光電式にしたものです。他社のばね式料金はかり(ひょう量2000g、最小表示量2g)の低価格製品に対抗するために(株)東京衡機製造所が振り子式料金はかりで日本国内販売でのバリエーションをそろえようという戦略でした。
 今では、日本から出国した人数が1年間に1000万人を超えるようですが、当時は1ドルが310円の時代で、まだ海外旅行や海外出張が珍しく、その年の暮には初めて100万人を超えた。と大きく報じられていたのを覚えています。
 私は海外旅行はもちろん、海外出張も初めてでした。それに飛行機に乗ったのも初めてです。北回り(北極回り)のアンカレッジ経由でフランクフルト、そしてデュッセルドルフ(Drsseldorf)に20時間くらいかかって行きました。その間、文字通り舞い上がっていて一睡もできませんでした。
 デュッセルドルフで(株)東京衡機製造所の現地事務所の高橋氏と合流して、次の日にシュトゥットガルト(Stuttgart)から南西60kmに位置する南ドイツの山の中の町バーリンゲン(Balingen)に着きました。
 ビゼルバ(BIZERBA)社はその山の中の町にありました。
 まず、社内を見学しました。ダイキャスト鋳造から機械加工と塗装、電子部品の組み立て、そして各部品とはかりの組み立て調整までを社内で一貫生産していました。
 工場内にはダイキャスト鋳造された上ケースと下ケースが「からし」(長い年月、風雨に放置することで、鋳物の鋳造内部応力を除去できて安定した製品ができる)のためか、所狭しと各工場のそばに山積されていました。
「振り子式料金はかり」の組み立て調整は、1フロアに30人くらいで作業していました。
1工程ずつ(ユニット)をひとりが組み立てて、手押しワゴンに6台ずつ乗せて次の人に送るロット生産方式です。
 研修はその部分組み立てから最終調整までを、4週間行いました。
 作業担当者は必ず専用の組み立て用治具を1組以上持っています。組み立て用定盤の上で必ず組み立てます。その治具が複雑巧妙にできていること、また、それを使うとピッタリ組み立てることができ、治具というよりまるで組み立て用機械の一部であるかのようだったことに、感心したのを覚えています。
 月曜から金曜まで作業時間は9時から5時までです。ところが金曜日の午後になると30人くらいいた作業者が2〜3人になってしまいます。
 聞いてみると、フレックスタイム制で月曜日から木曜日で金曜日の作業時間分消化しているとのことです。また、作業者の何人かは金曜日の朝から休みの人もいました。
 朝7時から出社している人も多いそうです。逆に、ある日、午後10時頃工場の前を通ってみるとまだ明りがついていて、作業している人もありました。当時の日本はまだ週6日制が一般的な時代だったのに、ドイツが5日制、それも実質4.5日制なのです。
 あまりの日独の格差に、当時は帰国後にこの話をしても、あまり理解されませんでした。
 フレックスタイム制は何年か前に日本でも広まりましたが、その後下火になってしまったようです。製造関係ではあまり聞きません。
 宿舎は町のビジネスホテルでした。日曜日には朝5時ごろから騒がしくなります。近くの教会に礼拝に来る人の自動車エンジンの音らしいです。また、日曜日は近くのお店は全部閉店です。土曜日までに何か食料を買い置きしておくか、それともホテルのレストラン(と言っても田舎町の食堂)で食べるしかありません。文化の違いを感じました。
 研修中、その内1日は当時、販売契約していたザウター社(SAUTER社・その後Mettler社と統合)に見学に行きました。こちらは、バーリンゲン(Balingen)よりもっと山の中です。時節柄、積雪は1m以上もありました。
 日本の組立てメーカーは、大抵の場合、鋳物部品は鋳物専門メーカー、ダイキャスト部品はダイキャスト鋳造メーカー、そして機械加工は加工メーカー、塗装メッキも外注に出します。電気ボードも基板組配業者より購入します。
 日本ではその製品の基幹になる部品、電子天びんでしたら、支点イタバネ、マグネットなどを社内で製作して、それらを総合組立て調整検査して製品に仕上げます。
 一方、ザウター社では、直示天びん(機械式天びん)と電子天びんの一貫生産をしていました。外装ケースや各部品の鋳造から、機械加工、塗装、ガラス製の目盛板の製作、そして電子部品の基板組み立て調整まで。外注購入品は電子部品のみという感じです。ですから、工場の広さ大きさは同じ台数製作するのに日本の5倍くらいはあったと思います。生産方式の違いを痛感しました。

<枯れ葉3><クリスマスツリー><上皿天びん2><天びん座の休日> <日比谷公園水曜コンサート><振り子式料金はかりKEとビーム>
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ドイツの休日

 日曜日の休日には、久米氏、高橋氏、私の3人で、シュトゥットガルト(Stuttgart)まで列車で片道3時間くらいかけて出かけました。観光地ではなく工業都市であるということで、日本人には出会うことはできませんでした。小さな子供が珍しそうに我々に指を差し、外人が歩いているとお母さんに報告して、怒られている光景を見ました。日本と良く似た光景に出会ってホッとしました。
 その日、博物館にも行きました。ドイツでは、ウィークデイは有料ですが、日曜日は無料だそうです。日本では逆に参観者が多い休日は高額になるところが多いのに不思議に思いました。
 次の週末は、久米氏と私の2人でスイスのチューリッヒ(Zurich)へ列車で片道5時間くらいかけて行きました。ここは日本人も行く観光地なので、繁華街では日本語が飛び込んできます。しかし、駅のホテル案内所でホテルを予約して長期滞在者ホテルに泊まった時には、やっぱり日本人は珍しいらしく、ホテルに着くと滞在中の日本人を呼び出してくれました。彼はここに1年以上滞在していて、部屋には鍋釜持ち込みで自炊しているとのことでした。
 この1972(昭和47)年は、2月に日本で最初の冬季オリンピックが札幌で行われた記念すべき年です。研修中のある朝、会社に行くと、ビゼルバの社員が「スキージャンプ70m級で日本が金銀銅を取って、日の丸が3本揚がった」と教えてくれました。ホテルに帰ってから、その偉業をロビーのテレビで観ようと思いました。しかし、日本でもこんな時は自国の選手の活躍ばかり放送されています。ドイツでも同じです。いくら待ってもドイツ選手が次々現れるばかりで、日本選手は画面に現れませんでした。残念。
 帰国後、やっと笠谷、金野そして青地選手の雄姿を観ることができて、嬉しかったのを覚えています。
 研修が終わって帰国する日は、霧のため、シュトゥットガルト飛行場で足止めされました。通常は列車でパリまで行ける距離ですが、我々2人は乗り継ぎが不案内のため、またまた長期滞在者のホテルに宿泊して、1日遅れでパリに飛びました。
 パリに着くと、日本人観光客相手の食堂、日本語メニュー、それと日本語の市内遊覧観光バスが溢れていて、肩の力が抜けたような気分でした。
 シュトゥットガルトで一日足止めされたため、パリでは当時の会社の粋な計らいで2泊するはずが1泊になってしまいました。
 到着後、早速日本人客の入っているレストランで我々も食事していると、一人の男が寄ってきて、「パリ市内を観光案内するヨ」と言うので、ついて行ってしまいました。エッフェル塔やシャンゼリゼ通りへ行きましたが、1時間もしないうちにその男はいなくなりました。どうやら、我々を案内していても金儲けにならないことを悟ったみたいでした。パスポートなどを盗られず、無事に帰れて良かったと思います。
 次の日にはJALで帰りました。当然ですが、日本語のアナウンスもあり、ゆったりした気分で帰国しました。
 帰国後は、振り子式料金はかり「KE−2」(ひょう量2000g、最小表示1g)を設計しました。同時に、独ビゼルバ社で学んだ「組立調整治具」の設計製作に取り組みました。
独ビゼルバ社からは刃と刃受けそして偏心カム(直線性誤差補正)、カム用ステンレスバンドなどをOEM供給受けることとして、その他は研精工業(株)で製作することにしました。
 ビゼルバ社は外装ケースをアルミダイキャストで作っていましたが、製造台数があまり多くない(日本国内のみの販売である)ことから、シェルモールド(精密鋳造法・熱硬化させた樹脂鋳型を用いる鋳造法)のアルミ鋳物としました。この時は、前職の鋳物メーカーにいたことが役立ったかな、と思いました。このはかりは外観がどっしりとして高級感があり、また丸みを帯びた形状のため、水洗いしやすく清潔感もあり、ロードセル式に取って代わられるまで、長期にわたりデパートの食品売り場や精肉店など向けに製造販売されました。

<とんぼ天びん><ひょうたんLEDクリスマス><デンフォレ><招き猫><七福女神>
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「懸濁物質自動監視装置」の開発

 産業公害問題が叫ばれる中、電気化学計器(株)(現・東亜ディーケーケー(株))より「懸濁物質自動監視装置」の開発の依頼がありました。ちょうど、その頃開発し始めた電子天秤(ひょう量10g、最小表示1mg)を応用して開発しました。
 当時のJIS工場排水試験方法により、工場の排水口の側で、ガラス繊維ろ紙を乾燥して電子天びんで計量する。それに、検水1000mlを通して、乾燥する。その後、電子天びんでひょう量して、ろ紙に捕えられたSS(懸濁物質)分を計量する、というものでした。
 構成は、電子天びん部、自動機構部、電装部、そして外装部に分かれます。電子天びん部以外は初めての組み立て調整です。試作組み立て調整を繰り返しました。
 組み立て完了後は、自動試験運転が必要です。昼夜連続で何日間か行っていました。ある朝、工場に行ってみると、廃水パイプの継ぎ手が外れてフロア全体が水浸しになっていたこともありました。
  1973(昭和48)年ようやく製品として完成後、製品を(株)興人富士工場の、工場排水が一般の河川に流れ込む直前の場所や、新日鉄君津製鉄所の工場内の、排水現場のそばに納入したことを覚えています。
 この「懸濁物質自動監視装置」は数ロット納入しました。
 その後、光学的方法による懸濁物質の連続分析法や、透過測定に使用するセンサーの自動クリーニング方法などが改善され、測定に簡便なこれらの方法(JIS K 0102)が、一般工場廃水現場では採用されることが多くなったのではないかと想像します。

<布袋の女><安芸の宮島>
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一般計量士試験受験

 1972年(昭和47年)、はかりに関係する国家資格に「(一般)計量士」があることを知り、挑戦することにしました。事前準備講習会に出席し、前年度までの出題傾向問題集を購入して受験勉強をしました。と言っても、あまり準備もできずに受験に行ってしまったことを覚えています。ですから、質量の計量は日頃の実務から理解できたんですが、物理は力学、電気、化学、光学と広い範囲から出題されており、苦戦しました。それで、2年目からは過去に出題された問題集を徹底して勉強し、受験しました。
 試験を受けた最初の年は3科目(計量に関する基礎知識、計量器概論および質量の計量、計量関係法規)合格して、次の年に1科目(計量管理概論)合格しました。そして3年目に残りの物理(現在は計量に関する基礎知識に含まれています)の試験1科目を受けました。現在と違って、当時は3年間で5科目合格すれば良かったのです。
 最後の年の試験は、特に思い出に残っています。東京で試験を受け終わって上野から常磐線で1時間ほどで土浦駅に着き、駅前に駐車しておいた車を運転して帰りました。上野駅でも土浦駅でも、曇ってはいましたが雨も雪も降っていませんでした。
 ところが、少し走り出すと雪が降ってきました。そして、20kmくらい走って筑波山が近くなり、自宅がある「はかり工業団地」まであと5kmくらいの坂の手前まで行くと、雪が5cm以上積もっていて車は進めなくなりました。そこに車を放置して、その後は雪の中を歩いて帰る結果となりました。東京から直線で50kmしか離れていないのに、こんなに気候が違うということをあらためて知らされた1日となりました。
 後日、合格通知が届き、この雪の帰宅は報いられた結果となりました。
 そんな苦労を経て、1974年(昭和49年)に計量士登録をしました。  

<休日の午後><奈良興福寺五重塔 猿沢の池より>
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電子式自動天びんALSEP「EE」の開発

 1974年(昭和49年)頃になると、商用はかりと工業はかりの電子化が徐々に広まってきました。それと共に、「天びんも電子式にならないか」という要求がユーザーさんから寄せられるようになりました。
 そこで、量産化とまでは行きませんが、シリーズ化して詳細カタログを作り、受注生産をすることになりました。型式は電子式自動天びんALSEP「EE」(電磁平衡式)と呼称することにしました。
 上皿直示天びんは、荷重皿とナイフエッジ支点の反対側にバランスウエイトとマグネットダンパーと目盛版を備えています。
 電子天びん(電磁式はかり)は、荷重皿とイタバネ支点の反対側に永久磁石とコイルを組み込み、電流を加えて平衡力を発生させ、その電流値を電圧に変換して、重量値として読み取ります。
 電磁平衡式はかりも、当初は支点にナイフエッジを使用していました。ところが、ナイフエッジは組立調整時の扱いが難しく、その上、完成出荷のための輸送用ロック機構が複雑になります。もともと、電磁平衡式の測定方法は零位法で、一定位置からビームが傾かないため、イタバネ(弾性支点)を使用するのに適しています。
 そこで、単体支点や十字型支点やV字型イタバネ支点を試行錯誤して使用しました。
 V字型イタバネ支点は1970年頃大阪工業大学で考案された方式です。組み立ては複雑ですが、完成して納入、そして使用段階になると、耐久性は抜群です。当時、チェッカーとして「EE」をベースに粉ミルク充填機チェッカー用(表示部分と機構部分を切り離したセパレートタイプ)にして使用されたはかりは、100万回以上使用された後も精度感度は抜群に良好でした。
 1台受注が決まると、設計から、部品発注、部品加工、組立、調整、温度調整、検査、そして納品まで、3カ月以上かかっていたと思います。
 このような工程で製造納品している間に、韓国浦項製鉄所から一台受注があったのですが、納品してすぐに「修理が必要だ」ということになりました。商社の方と計測器メーカーの方と私の3名で、韓国釜山港駅からディーゼル列車に乗って、約3時間余で浦項駅に行きました。そこからタクシーで、建設中の浦項製鉄所の正門に到着すると、なんと数名の兵士が銃を持ち、積み上げた土嚢の前で警備していました。日本国内の製鉄所には何度か行ったことがあり、守衛さんに自家用車のトランクルームまで開けて検査された経験はありましたが、銃を持った兵士がチェックするのは初めてで、驚きました。当時の韓国は「鉄は国家なり」。基幹産業として厳重に守られていたのです。
 その日は製鉄所建設関係者の宿舎に泊まって、次の日は大型バスで構内へ行きました。この時はフリーパスで正門を通過しました。
 製鉄所の分析室には研精工業(株)の「電子式自動天びん EE2000」(ひょう量2000g、最小表示1g)が置かれていました。
 早速、分解してみると、予想した通りイタバネが切れていました。日本からの輸送中に切れたのだと思います。持参したイタバネに交換して、組み立て調整を行って無事修理は完了しました。
 翌日は、同行の2人と別れて浦項から高速バスでソウルまで行きました。5時間くらいかかったと思います。この頃、日本ではすでに耕運機などによる機械化された農作業が行われていましたが、途中の高速道路からは、牛馬で田畑を耕す昔ながらののどかな田園風景が見えていました。
 ところが、ソウルのバスセンターに着く直前、2名の兵士が突然バスに乗り込んできて、乗っている乗客全員のチェックを始めました。その内、私の番が来ました。銃をこちらに向けて、パスポートチェックです。しかし、特に何も言われず、パスポートをチエックした後、そのまま返されて、ほっとしました。様子を伺っていると、どちらかと言うと、我々外国人より韓国人の方がチェックは入念でした。北朝鮮との関係か、ひとりひとり詳しく質問もしていました。
 翌日は直示天びんPointer「7A」の輸入検査に立ち会いました。その検査も無事に通過して、翌日金浦空港から帰国しました。
 この時、ソウルではホテルも予約せずに当日直接交渉して泊まったり、街の飲食店で食事をしたりしました。そうすると、直接の担当者が日本語が話せなくても、必ずどこからか日本語ができる人(戦前の日本語教育を受けた年配者?)を連れて来ました。お寿司も食べましたが、なんと麦飯に握った寿司でした。その味はぽろぽろしていて今も忘れられません。もっとも、これは寿司屋に限ったことではありません。家庭では白米を食べているそうでしたが、飲食店での白米の提供は禁止されているのだそうでした。
 またその頃、韓国では夜間外出禁止令(1982年に解除)が出されている時代で、全体に暗い印象を受けました。

<奈良興福寺五重塔 水煙><天びんEEで辰年をはかる><旧前田侯爵邸><ポインセチア>
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水産庁に「耐動揺船上はかり」納入

 1976(昭和51)年大阪工業大学前田親良教授(現・常翔学園理事)が考案された「耐動揺船上はかり」を研精工業(株)で製作しました。本紙2011年3月13日号にも紹介記事が掲載されていますが、イタバネ支点を利用した船の動揺の影響を排除して計量することができる、当時、画期的なはかりでした。
「耐動揺船上はかり」(ひょう量1000g、感量1g)は上皿直示天びん「TOP1200」を基本に皿の高さと加除する分銅の高さの重心位置を同一となる設計にしました。
 このはかりは研精工業(株)では組み立て、静的調整まで行いました。そして、最終の動的調整は前田先生の方で行われました。 納品後、大阪工業大学を訪問すると、校舎の前に、遊園地にあるシーソー型の大きな装置が置かれていました。聞くと、シーソーの片側に「耐動揺船上はかり」を乗せて反対側に学生が乗って、船の周期に合わせて装置を動かして、はかりを調整するのだそうです。
 その後、このはかりは水産庁の調査船で採用され、前田先生が実際に乗船してサバ魚群調査などに活用されました。

<日本丸のマスト(竹芝ふ頭公園にて>
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計量士としての代検査

研精工業(株)の業績が思わしくなかった1978年(昭和53)年、私はいわゆる独立した請負社員となりました。すでに、研精工業(株)では茨城県下妻市に工場移転する際に営業部門を全員独立させていました。それはある程度の成功をおさめていましたので、製造部門も社員一人一人独立させて、その独立者の総合体が研精工業(株)としようという、吉川貞男社長(故人)の方針だったと思います。
 会社から独立して仕事をするといっても、研究開発のテーマはおいそれと受注出来るものではありません。
 そこで、以前取得した計量士の資格を活用して収入の道が探れないか検討してみました。この頃、東京都などで代検査が行われていると聞いていました。
 茨城県で、はかりの代検査を始めました。
 ところが、東京都と違って茨城県の場合は商店から商店、つまり、はかりからはかりが離れており、車の走行距離が大きく、ガソリン代を使用するばかりです。1台のはかり代検査に片道50(株)以上も走って行ったこともあります。また、検査実施時期も1年のうち2〜3カ月でした。
 私は数年で撤退することになりました。
 しかし、代検査をする間に、スーパーの惣菜、野菜、町の肉屋さん、お茶屋さん、お米屋さん、そして保育園、学校など、はかりの使用現場を勉強することができました。

<千葉県金谷漁港><アルジャンの女>
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「はかり団地」での生活

 茨城県下妻市「はかり団地」に工場移転してからは、大都会の喧騒を離れて会社の実務以外はのどかな暮らしでした。休日には砂沼(下妻市)や霞ヶ浦へ松平一男さんたち会社の仲間とヘラ釣りやコイ釣りに「釣り舟」で行ったりしていました。大抵はおでこ(1匹も釣れない)でしたが。
 夜は電気を消すと真っ暗で鼻を摘ままれてもわかりません。大阪や東京の大都会の明るい所では見ることができない天の川もはっきり見られます。
 下妻市街より5km以上離れた山林を切り開いて工場と住宅を造成したため、自然がいっぱいでした。
 イタチやヘビが道路をウロウロしていることもたびたびです。たまに、ネズミが家の中を歩いていたりしました。トノサマガエルの夫婦も庭の池に住みついたこともあります。季節になるとフクローやキツツキやウグイスの声も家の中にまで響きます。
 時々、野ウサギがぴょんぴょん跳ねていることもあります。ある夜、自動車で走っていると野ウサギが前に現れました。ライトが眩しくてどちらに逃げたらいいのかわからなくなったのか、100mほども自動車が走る方向に走ったことがありました。
 ホタルも、都会では特別に育てている場所しか見られません。私は、はかり団地に来るまでは、大阪生駒山の山中にキャンプに行った時に一度見かけたくらいでした。ある夜、ホタルが見られる場所があることを聞きつけて、小学校に上がる前の子供を連れて妻と家族4人で出かけました。ホタルはいっぱい飛んでいて夢の世界でした。川から水田に引いている水が落ちる場所で綺麗な水が流れている場所でした。ところがその頃、ホタルは地元の人には特に珍しいものではなく、あちらこちらで見られたらしいのです。家族4人でわざわざ見学に行ったことが、かえって会社内で評判になりました。下妻では今でもホタルは見ることができるらしいです。しかし、ヘリコプターによる水田への農薬散布(こちらに来て初体験しました)のせいか、最近ではカエルもヘビもめっきり減って見かけなくなりました。
 子供が夏休みになると、朝早く起きて工場の防犯灯の下に落ちているカブトムシやクワガタを集めました。工場の防犯灯を一回りすると小さなバケツにいっぱいになるくらい集まったこともありました。東京のデパートに持っていくと売れるくらいです。今ではそれほどまでは捕れないようですが、それでも何匹かは集まるそうです。
 2004年に映画『下妻物語』が深田恭子主演で上映されて、下妻市がその舞台になりました。それまでは茨城県外では認知度の低い地名でしたが、急に有名になり、何か嬉し恥ずかしの気分でした。上映されたのは8年ほど前ですが、映画では下妻駅も古〜い昔の下妻駅の印象(近くの駅で駅名看板を取り代えてロケをした)でした。もちろん、映画に出てくるような特攻服を着た人に会ったことも見かけたこともありません。

<阿吽の像><阿修羅(切り絵)><製缶工場><別府の湯けむり>
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電子天びんALSEP「EGシリーズ」の開発

 1980(昭和55)年、電子天びんALSEP「EGシリーズ」(ひょう量200g〜100g、最小表示0・001g〜5g)の開発をしました。価格は約40万円から100万円です。現在の電子天びん価格からはかなり高額ですが、当時としては標準的な価格だったと思います。
 これまで、受注生産で製造していましたが、他社の動向も活発になってきたころであり、電子式自動天びんALSEP「EE」でひょう量100gまでの機種について設計製造販売の実績ができましたので、受注生産では納期の面でも価格の面でも対応しきれなくなってきました。そこで、研精工業(株)としても量産化する必要が出てきました。
 ちょうどその頃、日刊工業新聞に、はかりの電装部を作っている(株)エー・アンド・デイを紹介する記事が出ていました。研精工業(株)では機構部品の購買部門は充実していましたが、電子部品の購買部門はありませんでした。製造の都度、電気設計担当者が東京の秋葉原まで購入に行っておりました。
 ちょうどその頃、日刊工業新聞に、はかりの電装部を作っている<CODE NUMTYPE=SG NUM=73C2>エー・アンド・デイを紹介する記事が出ていました。研精工業<CODE NUMTYPE=SG NUM=73C2>では機構部品の購買部門は充実していましたが、電子部品の購買部門はありませんでした。製造の都度、電気設計担当者が東京の秋葉原まで購入に行っておりました。
 そこで、早速(株)エー・アンド・デイに電話をして、工場見学に行きました。当時の工場は、国道17号沿いのドライブイン(駐車場付きレストラン)の跡地で操業していました。村田豊さん(現・(株)エー・アンド・デイ取締役)がドライブインの畳の席に事務机を置いて設計されていたのを覚えています。そして、ドライブイン時代は厨房であった場所は、製造部ということで、電子基板の製作をしていました。
 次に訪問した時は、2階建ての元は倉庫だった場所に移転していました。そこは国道筋から離れた静かな住宅地でしたが、元は倉庫ですから2階の床は板一枚です。隙間があり、歩くと下の階に砂が落ちます。「なるべく歩かないようにして下さい」と注意されたのを覚えています。
 こうした見学を経て、「EGシリーズ」の電装部は(株)エー・アンド・デイに発注することになりました。
 「EGシリーズ」は、標準型(g表示、風袋引きのみ)、B型(メモリー、標準偏差機能付き)、そしてN型(個数計付き)合計36種類を開発しました。しかし、この種類の多さのために多種少量生産になり、在庫量の拡大に繋がってしまいました。
 後日談ですが、この「EG−200」の機構部分について、特許取得をしていました。
 後年になって、大手メーカーから外観は多少異なるものの、内部機構部分は「EG−200」そっくりの製品が市場に出ました。その時に、弁理士さんに相談したところ、特許申請書は素人の私が書いたものでしたので、大きな欠陥があり、これで相手企業を特許侵害で訴えたら、逆に、損害賠償を請求されてしまうと指摘されて、泣き寝入りすることになりました。
 昨秋、直木賞を受賞した、池井戸潤『下町ロケット』の中でも、大手企業に特許侵害された下町企業の取得した特許に穴があることが大きな問題となって、悪戦苦闘するモノ作りの現場が描かれています。
 読了後、あらためて、特許申請の難しさを痛感しました。

<芝離宮庭園><薔薇><下町ロケット>
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(株)エー・アンド・デイに転籍

 1982(昭和57)年、研精工業(株)は(株)エー・アンド・デイと業務提携することになりました。研精工業(株)は製造部門のみとなり、営業部門と開発部門は(株)エー・アンド・デイで行うこととしました。
 それと同時に、私は営業の吉川貞樹さんらと共に(株)エー・アンド・デイに転籍となり、天びんの開発業務を続けられることになりました。
その頃、(株)エー・アンド・デイは元は倉庫だった場所から埼玉県鴻巣市の新しい工場に移転して操業していました。工場は開発主体に行われておりました。約100人のうち、半数が設計開発要員です。はかり開発設計部門は村田豊さん、の他数名でした。この頃、工場の就業時間は朝8時30分から午後5時30分でした。しかし「午後10時が定時」と言われるほど、残業は多かったです。中には深夜残業や、徹夜残業の人もいました。
 (株)エー・アンド・デイのモットーは「やりたいことをやりたいだけやる」ですが、文字通り全員がそれを実践している時代でした。

<花(オダマキ)の命をはかる>
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電子天びんA&D「EX,EYシリーズ」開発

 1982(昭和57)年、電子天びん「EX,EYシリーズ」(ひょう量200g〜6kg、最小表示0・001g〜0・1g)の開発に携わりました。
 (株)エー・アンド・デイに転籍して初めての製品です。古川陽社長が打ち出したコンセプトは「日本国内だけでなく、全世界に輸出販売する。プレスとアルミダイキャストと樹脂などの部品で、『型』で加工出来るものはすべて『型』で行う」というものでした。このコンセプトを実践したおかげで、製造コストはALSEP「EGリーズ」の半分以下になりました。
 この時に問題になったのは、支点のイタバネです。
 今までの経験から、輸送中に支点のイタバネが切れて破損するという事故が多いため、何とか解決したいとの念願がありました。しかし、天びんの精度は薄いイタバネ(0・1mm以下)でないと出ません。そのまま製造すると、工場での精度検査は良好でも、完成後運搬の際に破損してしまいます。
 中央部だけを薄くすれば、取り付け部分は厚くできるので効果的なことが解ってきました。ところが、その製造方法が問題です。他社の製品は、グラインダーで加工して薄くするか、ワイヤーカット(放電加工)で加工して薄くするか、それともプレス加工して薄くするか、いずれかの方法でした。そんな時に、高橋健一さん(当時・研精工業(株)部長、故人)が、プレスで加工したらどうかと提案してきました。プレス機械でドンと潰すと綺麗なカーブになります。それに大量生産には最適です。
 プレス加工担当の古沢貢さんと中里勇吉さんがプレス機械の種類と大きさ、そして、加工スピードなどの試行錯誤を繰り返して、使用可能な支点イタバネ(弾性支点)が完成しました。
 また、米国の代理店からは「トラック輸送の際に高さ1mくらいから荷物が投げられるのは当然」との情報も入りました。これに支点イタバネが破損しない耐えられる製品にして欲しいという要求も来ました。
 電子天びんの開発では、より高い精度を求めるためには、より薄い支点イタバネが必要になります。一方、運搬中に切断など損傷しないようにするには厚い支点イタバネが必要です。
 その後も、精度が出て運搬中損傷しない狭間と限界を見つける闘いが続きました。

<黒船・天びん座><千葉県金谷漁港から鋸山を望む>
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電子天びんA&D「ER180シリーズ」開発

 1984(昭和59)年、電子天びんA&D「ER180シリーズ」(ひょう量180g、最小表示0.1mg、ひょう量20g、最小表示0.01mg)を開発に携わりました。
 このシリーズは、感度との関係から、先に開発しましたA&D「EX,EYシリーズ」より、天びんの支点に使用している支点イタバネ(弾性支点)の厚さの問題が、さらに難しくなりました。
開発設計段階では精度(感度、再現性、温度特性など)の性能に問題ないことを確認してから、運送上に問題ないか試験をします。いわゆる「梱包落下試験」が、今まで以上に大きなウエイトを占めるようになりました。精度は問題なくても、「梱包落下試験」で不合格になる。イタバネ厚さ(0・1mm)は輸送中切断の危険性からこれ以上薄くできないので、イタバネの材質か、形状の変更をする……。こんな繰り返しが続きました。幾度もの精度試験と梱包落下試験の結果、完成したことを覚えています。
 これにより、直示天びんのひょう量と最小表示範囲は全てカバーすることとなりました。
 1985(昭和60)年には、電子天びんシリーズA&D「EPシリーズ」(ひょう量60kg、最小表示0.1g)に携わりました。これにより、ロードセル式はかりとのひょう量と最小表示範囲に連続性ができました。

<阿修羅とんぼポール>
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電子天びんA&D「FX・FYシリーズ」開発

 1986(昭和61)年、電子天びんA&D「FX,FYシリーズ」(ひょう量410g〜6・1kg、最小表示0・001g〜0・1g)の開発に携わりました。
 「FX、FYシリーズ」はそれまでの量産化の経験と他社との競業から、小型化とコスト削減をコンセプトに開発しました。
 アルミダイキャストケースはジャパン機工(株)(仮称)に発注しました。
高橋健一さん(当時・研精工業(株)部長、故人)が、今までの発注先では量的および価格的に対応不可能だということでした。相見積もりの後に、発注することにしました。
 そのあとに工場見学すると、アルミダイキャストのほかにアルミ鋳物、プラスチック(ABS,FRP)機械加工部品も製造しており、(株)エー・アンド・デイよりずっと大きな会社でした。取引先も一部上場の建設機械メーカーや工作機械メーカーそして農業機械メーカーでした。よく取引を承諾して貰ったものです。これが、後の天びん部門の発展に大きく繋がったと思います。
 私はずっと天びんの機構部を担当してきましたが、この機種を開発する頃から徐々にプログラムソフト設計者の負担が大きくなってきました。スパン調整、直線性などの調整がソフトで実現できるようになりました。
 ソフトを設計するのは、天びんの機構部の特性データが出た後になります。ですから、ソフトの設計作業は機構部および電装部が殆ど出来上がってからの作業となります。開発人員と開発期間は今まで以上にかかることになったと思います。

<はかりの髪飾りの女>
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海外展示会

フランクフルトで展示会
 1985年(昭和60年)、ドイツのフランクフルトで3年に1度開催される世界的な化学技術展覧会、アヘマ(ACHEMA)に電子天びんを出品しました。
 海外営業部のナベさんと共に、夕刻フランクフルト空港に着きました。早速タクシーに乗り、運転手さんに住所とホテル名のメモを渡して走ること30分。しかし、ホテルの看板が見当たりません。その住所地のブロックを3周走ってもらいましたが見当たりません。住所はここで間違いないということなのでそこで下ろしてもらいました。その辺りには1軒の酒場しかありません。その店で尋ねてみました。すると、隣にある建物が自分の経営するホテルだということでした。税の関係でホテル名は出していないということです。
 ホテルというより、安宿、2人で宿泊するのにベッドは1個でした。私が酔っぱらってベッドを独占して寝てしまいました。
 次の日に、手配したドイツ人のドルネスさんに「なぜこのホテルを予約したのか?」と質問すると、彼女の弁が振るっていました。「エー・アンド・デイはまだ会社が小さい。だから、この程度のホテルが丁度いい」との返答でした。
 この展示会で、(株)エー・アンド・デイのスペースは外国メーカー館に1小間程度の広さで、周りにテーブルを置いて、天びん関係の製品を約10台とカタログを並べて展示していました。
 メトラー、ザルトリウスは本館に展示されていました。入場者が必ず通る中央部に広いスペースで構えて、観覧者がモニュメントの中を歩いて通れるほどの大きな天びんが設置されていました。
 本館の展示、会場の広さにすっかり圧倒されました。当時の日本では晴海で展示会を開催していました。後年できた東京ビッグサイトと比較しても、何倍もの広さでした。
来場者の規模も大きく、ヨーロッパ各国はもとより、アフリカやアジア・インドネシアからもやってきていました。来ないのはアメリカくらいでした。アメリカは国内で大きな展示会があるからでしょう。
 来場者は、日本と違って夫婦連れで来ている方が多いようです。ゆったり時間をかけて見学し、商談して帰るスタイルです。
 中庭の芝生で半裸になって日光浴している人も見かけました。リゾート地の、のどかな風景のようです。
 会場はフランクフルト中央駅から徒歩10分程の所で、宿舎からはバスで通いました。切符は買いますが、駅員などによる改札のチェックはありません。回収箱があるだけです。
 以前、チューリッヒに列車で行った時も改札はありませんでした。すべて、行き先料金は自己申告です。払わない人もいるらしいです。日本のように、改札に多数の駅員や自動改札機を設置するのと、経済的にどちらが有効か疑問を感じます。日本もドイツなどのように、もう少しゆとりと寛容さがあってもいいのではないかと思いました。

モスクワ展示会
 1989(平成元)年、モスクワで、(株)エー・アンド・デイ単独の計量器展示会がありました。
 展示会は、当時のモスクワでは珍しい、外国人専用の総ガラス張りのホテルでした。ホテルの入り口にガードマンが立っており、外国人はフリーパスですが、ソ連人はチェックが掛っています。
この展示会はモスクワの商社がユーザーを招待しており、遥か離れたウラジオストックからやって来てくれた人もいました。同じ国内とはいえモスクワからは8000kmも離れており、東京の方がよほど近い距離です。
 夜は「赤の広場」にも行きました。「赤の広場」はロシア語で「美しい広場」の意味だそうです。ソ連共産党革命記念日にはブレジネフやフルシチョフなど、歴代の書記長が閲兵式(軍事パレード)をした場所です。大陸間弾道ミサイル(ICBM)や戦車が通るのをテレビで見たことがあります。さぞかし広大な広場だろうと私の頭の中で想像していました。
 ところが、広場の入口は坂道で、片側一車線の道幅くらいで、しかも曲がっています。よくまあ、あんな巨大なICBMが通れたものだと思いました。赤の広場(7万3000m2で東京ドームの約1・5倍の広さ)も、周囲の建物がどれも巨大なのでそれほど広く思いませんでした。クレムリン宮殿の向かい側がデパートだったのにもびっくりしました。式典ではテレビの映像にデパートが映らないようにしていたようです。
 ちょうどこの前年、ドイツ人青年が小型飛行機を操縦し、低空飛行でソ連軍の警戒網をくぐり抜け、「赤の広場」の端の方に着陸するという事件がありました。この場所も実際に訪れてみると、とても狭く、よくこんな所に着陸できたものだと感心しました。
 次の年に、もう一度モスクワに行きました。
 その時はソビエト連邦からロシアに変革する時代に入っていました。町のパン屋さんにはパンも並んでいません。ホテルのレストランのメニューにも線が引かれてオーダーできないものが多数ありました。
 文房具店には錆びた画鋲が並んで、長さ計も不足しているようでした。天びんのユーザーさんの所では紙で定規を自作していました。
 モスクワの地下鉄駅の素晴らしさは以前から聞いていました。なるほど大きな駅です。高い天井には豪華なシャンデリア、太い大理石の柱が並んでいるのに感心していました。ある時、行き先を乗り間違えて、中心部に行くところを逆にモスクワの周辺行きの電車に乗ってしまいました。そうすると、駅はだんだん小さく寂しくなって行きました。それで、反対方向に乗ってしまったのに気がつきました。この経験から、豪華な駅は中心部だけだと、解りました。

ニューヨーク展示会
 1990(平成2)年、ニューヨークで開催された、ピッツバーグ・コンファレンスに参加しました。このときは、(株)長計量器製作所(研精工業鰍フ直示天びんのライバルメーカーでした)での前歴を持つ営業のトラさん、ミヤさん、そしてマエさんと一緒に行きました。
 この出張は珍道中の連続でした。トラさんはお土産に「くさや」を持って来ました。ホテルで皆で食べました。臭かったです。後にも先にも、食べたのはこの一回きりです。
 マエさんは、途中立ち寄った現地法人のあるサンノゼのホテルでパスポートを忘れてきてしまい大騒動でしたが、何とかニューヨークで本人の所に戻って来て、安心しました。
 展示会場に来たアメリカ人の営業マンは、日本人より体力的にもタフです。一日ずっと立ちっぱなしで、説明員の仕事をこなし、ホテルに帰ってからその日の反省会をします。夕食中も一日の反省と明日の作戦、その後も今度はワインを飲みながら12時過ぎまで討論です。こちらは、10時頃になると退席してしまいました。
 日本人は仕事熱心と言われますが、外国人ビジネスマンが仕事熱心なのとタフなのはフランクフルトでもニューヨークでも同じで、展示会に出展している他の会社の日本人営業マンも敬服していました。
 ニューヨークでは4人そろって行動しました。地下鉄は危険だということで乗らないことにしていましたが、ある時、一度は乗ってみようということになりました。すると、逆に現地のニューヨーカーは我々4人の日本語に恐れをなして、逃げていきました。東京の地下鉄でも良くある光景です。
 また、せっかくニューヨークに来たのだから美術の町ソーホー(SOHO)に行きました。ビルには大きな壁画がありました。何軒かの画廊も周ってみました。絵画は分厚いキャンバスに画いて額に入れたものより、薄い紙のものが多かったです。帰国してから、薄い紙にニューヨークの思い出を画きました。

<フランクフルト旧市庁舎前にて><シンビジューム><空を翔る阿修羅とんぼ><マジョリカ人形風天びん><シクラメン春><上野寛永寺五重塔><マンハッタン><奈良興福寺五重塔猿沢の池より><虫食いブロッコリー>
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電子天びんHXシリーズ開発

 1991(平成3)年、内蔵分銅つき電子天びんA&D「HXシリーズ」を開発しました。
 当時の営業担当者から、お客様情報として「校正用分銅を内蔵した天びん」と、「表示部分を外したい(外部表示器)」という要求が出てきました。その要求を製品にしたのが電子天びんA&D「HXシリーズ」(ひょう量410g〜6・1kg、最小表示0・001g〜0・1g)です。
 汎用型上皿電子天びんで校正用分銅を内蔵した天びんは、A&Dでは初めてでした。分析用電子天びんには内蔵分銅が保持されていて、手動操作により校正されていました。
 まず、分銅をどこの位置に置くか、大きさ、個数など。ユーザーが表示部を前面から外して後ろに設置する構造も、今までに例がなかったため、試作を繰り返しました。
ところが、工夫を凝らしたHXシリーズは当時としては高級機となって、価格も高くなってしまいました。古川陽社長の掲げる「ローコストハイクオリティー」のコンセプトから外れることになり、私も開発から外れる運命になりました。
 この後、天びんの開発は出雲直人さんたちが引き継ぐこととなり、私の天びん開発マンとしての人生は終了しました。

<勝利の女神ニケ>
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研精工業(株)に出向

 1992(平成4)年、私は古巣の研精工業(株)に出向することとなりました。
 研精工業に帰ってみると、A&Dと業務提携する時点で退社した人も多く、業務提携以前から働いている人は僅かでした。まして、私が研精工業に入社する以前より務めている人は、天びん名人の松平一男さんを含め数名だけでした。
 作業も、一つのユニットを一人で組み立てる方式から工程ごとに組み立てる方式に変り、作業者も覚えやすい方式になっていました。台数も10台ロットから100台ロットで組み立てている工程もありました。それだけ生産台数が増えていたと思います。
 私は、開発が設計した製品を製造部門で量産出来るようにする組立てジグを作製する部門です。製造ラインを構築改善する生産技術を担当することになりました。

<阿修羅とんぼ2>
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品質保証規格ISO9002取得

 1995(平成7)年、研精工業(株)は国際品質保証規格ISO9002認証を取得しました。
 「経営者」は渡辺進さん(当時・研精工業(株) 社長)、私は「管理責任者」として、認証検査を受けました。
 それまでずっと開発技術畑でやって来ましたので、品質管理にそれほど詳しいわけではありません。しかし、天びんは海外、とりわけアメリカ、ヨーロッパに輸出されていました。そんな関係で、カナダの代理店から「ISO9002認証取得していない商品は販売できない」との連絡が入りました。認証取得は待ったなしになりました。
 (株)エー・アンド・デイの品質管理室の森義晴室長(当時・取締役)全面指導のもとに、急遽、認証取得の準備に入りました。と言っても、まだそのころは書店に行っても、詳しい適切な書籍はありません。
 品質目標は「品質向上の継続で、より良い価値を提供する」に決定し、品質マニュアルに沿ってまずこれを社員全員に徹底しました。次に、出来上がったばかりの何冊もある分厚い「管理基準」を理解することです。
 品質管理の用語もドンドン出てきて認証検査日は近づくし、因惑しました。品質管理の基本である「5S」(整理、整頓、清潔、清掃、躾)を重点的に行うことにしました。そうこうするうち製造図面は「承認発行日および受取り日印が、今まで配布していた図面には無いものがある」という問題が起こり、結局総入れ替えです。手順書の作成と配布など、ISO9002認証審査の前段階で多くの時間を浪費してしまいました。
 こんな状態で認証審査を受けるのですから、審査するJQA(日本品質保証機構)の審査員には「管理責任者の理解不足」と言われましたが、なんとか認証されました。
 認証式が東京のJQA事務所で行われるということで出席しました。当該1ヶ月間にJQAで認証された会社約30社が集まっていました。奇遇ですが、前職の鋳鉄管メーカーの品質管理担当者も出席していました。
 認証番号は、JQA0786です。聞けば、その頃日本全体で認証されているのは、わずか1000事業所だったそうです。今から考えると、品質管理の専門職でもないのにこの時期に取得しようとしていたのですから、苦労したわけです。
こうして、お陰さまで海外代理店への義務を果たすことができ、輸出は継続されました。
 加工、組立、調整手順書の作成配布には随分時間を浪費しました。後で見ると、審査の時には役立っても、後々作業するにはこれでは役に立たないものも見つかりました。後にJQAも方針を変えて詳細な文書化はそれほど求めない、「品質マニュアル」の作成を求めるようになりました。しかし、審査員によっては、細かい所まで質問する審査員も多く、審査を受ける方も文書があった方が受審しやすいということで、研精工業(株)ではその後も同じ「管理基準」を使っていました。
 ある時、オーストラリアでISO9002を認証取得している会社の人が研精工業鰍ノ来社された際に、この時に作成した文書関係一式を見せますと、ビックリ仰天されました。オーストラリアでは、我々の作成ファイルの10分の1くらいだそうです。どうしても日本の場合は審査者、受審者の双方に繊細な人が多いので、このような結果になるのではないでしょうか。
 その後、血圧計を製造していた関係で、医療機器指令(MDD)の審査を受審しました。審査員は米国人でしたが、審査は規格の本質的な部分だけを質問し、認証されました。
 1996(平成8)年、この認証は(株)エー・アンド・デイとのマルチサイトとしてISO9001に認証取得変更になりました。

<日光東照宮五重塔><それいけTigers><日光東照宮五重塔 水煙>
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指定製造事業者を取得

 1995(平成7)年のISO9002認証取得後、研精工業(株)は計量法の「指定製造事業者」の指定を取得しました。
 内容としては、国際品質保証規格ISO9002とほとんど変りませんが、用語が変わったりしています。たとえば、ISO9002の「管理責任者」は「品質管理推進責任者」と名称が変更になりました。
 唯一つ、大きく異なる項目は「完成品管理」です。「基準適合証印」を押す性質上、部品仕様から製品仕様まで詳細に登録記述する必要があります。
 ISO9002の認証取得した事業者は「完成品管理」だけの審査で合格ではないのかと思っていました。しかし、法律上、全項目の審査を受ける必要があります。何日間もの審査は小企業の研精工業(株)では各部門の担当者も数少なく、大きな負担となりました。
 その後も毎年継続審査での書類整備の負担があります。基準適合証印の効果についても、大手の大量生産メーカーなら有効でしょうが、中小の出荷台数の多くないメーカーにとっては有効か疑問を持つようになりました。

<茨城県古川総合公園>
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研精工業(株)社長に就任

 2002(平成14)年、前任の渡辺進社長が勇退された後、(株)エー・アンド・デイ業務提携以前から研精工業(株)に勤務した経験のある関係で私が研精工業(株)の社長に就任しました。
 就任当時、一番気を遣ったのは親会社と子会社との関係でした。私は親会社(株)エー・アンド・デイの社員で、研精工業(株)では親会社からの出向社員です。どっちに行ってもよそ者のような立ち位置でした。
 そんな折に、中井貴一主演の「燃ゆる時」が上映されました。我が意を得たりと言う思いで早速上映館へ行きました。
 映画では、アメリカに工場進出した即席麺の会社が、なかなか軌道に乗らず苦労するようすが描かれます。主演の中井貴一は現地法人の社長に就任し、東京本社の命で再建策を次々打ち出していくのですが、現地の従業員の理解が得られず困難に直面します。
部品(材料=油)の調達が上手くいかず、もう少しで工場のラインが止まってしまう寸前でトラックがやってきて入荷する感動の場面。
 親会社と子会社の狭間に立ってさまざま苦労をする場面にも共感するところが有り、自分と類似した思いでした。
 2007(平成19)年に社長を退任するまでの間は、人事問題や慣れない経理、そして対外交渉に没頭することになりました。
 社長退任後はデイリーの業務から新規事業などを手掛けることになりました。それまで読んでいた本紙『日本計量新報』、経済新聞に加えて一般紙も読める時間的余裕が出てきました。
 ある日、一般紙社会面の中段に常用漢字の追加候補記事の見出しがありました。詳細を読んでみると、なんと削除候補に計量に関する5文字が有ることが記載されていました。

<オダマキ><火炎・弾性支点>
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